家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

死人の復活ー結び

2023年12月10日

テキスト:Ⅰコリント15:45~58

讃美歌:95&107

                              (6)死人の復活(15:1~58)
                                            
 前回は、創世記1章「神の似姿」として創造されたアダムを、あるべき人間の理想(イデア)とし、罪を浄められてこの原初の状態に還ることを救済とする復活否定論を反駁し、「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです」という箇所を取り上げた。つまり、現在の人間と世界の状況を固定させ、霊的内面的充実をもって「救済」としたり、(肉体を切り捨てた)魂だけの「救済」を求める考え方を否定し、現在ある自然的人間から永遠の命に生きる「霊の体」に復活するという救済史的希望を述べた。
 そして、「魂的体=自然の命の体」と「霊的体=霊の体」の断絶を結ぶものは、「死」ではなく「神の創造の御業」であることを、奥義(神秘)として語った「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」。神の前に、生きた時代や場所、(魂的命の)生も死もない。神の御心に定められた「時」、即ち合図の「最後のラッパが鳴る」と同時に、「たちまち、一瞬のうちに」、「わたしたちは変えられます」。今日は、その続きである。
Ⅳ.復活の身体(15:35~58)
e.結び-神的必然と勝利
 「53この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを<必ず>着ることになります。 54この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた』。
55『死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』。
 56死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 57わたしたちの主イエス・キリストによって神に、感謝しよう」。
 53節の<必ず>は英語のmustに相当するギリシャ語<デイ>である。ギリシャ圏においては、オイディプス王が父親を殺し母親と結婚するという「運命or定め」から逃れる事ができなかったように、非情な運命の支配により一定の出来事が起こらざるを得ない必然を表現する語であった。だが、創造信仰を持つイスラエルギリシャ語を用いるようになると(70人訳聖書など)、この語は、神の御意志によって定められた来たるべき将来を表す言葉として用いられた。ダニエル書などの黙示文書始め、新約聖書でも<デイ>は神の定めによる終末的必然を表現している。
 然しながら、ユダヤ教においては「死人の復活」は将来のある時点で起きるべき事柄とされたが、それまでは現在の状況が継続すると考えられていた。これに対し、「イエス・キリストの復活」がすでに生起した事を告げる福音(キリスト信仰)においては、キリストから注がれた聖霊によって、すでにコリント教会にも、奇跡や異言、預言の賜物として与えられ現在の出来事となっている。これはキリスト者一人一人に、キリストの霊が内在し働き給うからである。何よりも、「霊の体」の<初穂として>復活されたキリストが、ダマスコ途上でパウロに顕現し、現実として御自分をお示しになった。だからキリスト者は、「死人の復活」を、ユダヤ教のように「いまだ」成就していない単なる約束としてではなく、「すでに」内在し給う聖霊に保証され、今はその賜物を味わいつつ、薄皮一枚隔てた身近な将来として感得し、確信できるのである。
 また、主にあっては、この時間的人生における出来事のどれ一つも無駄ではなく、犯した罪や過ちまでも、それを赦し贖い給うた神の恩寵の輝きを際立たせる事を、実感する。「多く赦された」から、多く愛し感謝できるのである。ステンドグラスの意匠が、射し込む光を通して燦然と浮かび上がるように、「この死ぬべきものが死なないものを着るとき」、一人一人の人生の意義が、それぞれ恩寵の光に照らし出され、神の栄光を讃美し現すものとして明らかにされる。
 「死人の復活」が神的必然である事を語り終えたパウロは、この終りの日の栄光の有様を思い浮かべて感動し、歓呼する『死は勝利にのみ込まれた』!これは、イザヤ25:7~8「主は…死を永久に滅ぼしてくださる」からの引用である。続いて一息に『死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』と言う。これは、ホセア13:14「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る」の引用とされているが、文脈があまりに違う。ホセア書では、神の断罪と裁きの言葉であるのに対し、パウロにおいては死に対する勝利の歓呼となっている。
 当時の聖書は、巻物にされ櫃に納めて保管されるものであり、個人が所有するというよりシナゴーグなどで朗読されるのを繰り返し聴いて暗記するものであった。まして定住せず、宣教の旅を続けたパウロが持ち歩いているはずはない。記憶による引用なのである。日本でもかつて論語素読して、まず音で記憶し心に刻んだように、大切な言葉は繰り返し読んで暗記し、心に刻みつけるものである。「同年配の誰よりも神に熱心であったパウロは、心に刻み込まれたホセア書のこのフレーズを、(思わず換骨奪胎して)死への勝利の歓呼としてほとばしらせたのであろう。
 56節「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」の意味についてはロマ書で詳しく語られている(例えば3:20「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」)。
 この<とげ>について、英語の授業で読んだスチーブンソンの「ロバと共に旅して」を思い出す。スチーブンソンが徒歩の旅の荷物運搬用にロバを借り、そのロバが思うように動かず困っていると、釘を打ち付けた<とげ>付棒で突いたり、叩いたいして歩かせれば良いと教えて貰った。それを実行して、やっと進ませたい方向に歩かせる事ができた。だが、ロバの尻に血がにじむのを見ると、哀れでならなかったと書いていた。この、進む方向を強制する「釘を打ち付けた<とげ>付棒」のイメージで読めば、分かりやすい。人間は、律法を知りながら敢えて罪を犯すことで、裁きとしての死の定めへと強制的に導かれる、という意味であろう。だが神は、イエス・キリストの十字架と復活によって、人間が罪に死に義に生きる途を開いてくださった。57節「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」は、そのことについての讃美と感謝である。
d.章全体の結び-勧告 
 「58わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
 パウロは、文字通り血の滲む伝道によって生み出したコリント教会の人々に、復活否定論に動かされず、15:1「わたしがあなたがたに告げ知らせた福音」、「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5ケファに現れ、その後十二人に現れたこと 」という、復活を信じる信仰に「しっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と、勧告する。
 <主の業>の内容は、各自思い浮かべられるだろう。「正義を行い、慈しみを愛し、謙って汝の神と共に歩め」とか、「愛の業」とかである。だが、特に慰め深いのは口語訳「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」である。非戦論の立場から逮捕投獄された無教会派の浅見仙作牧師は、「50年もの活動(伝道)で、わずか数十名の教会員を得たのみ」と嘲られた。しかし数十名ならまだましで、無宗教のはびこる現代において、目に見える宣教の成果を嘆く伝道者は少なくない。もし世俗的職業についていたら、と思う事さえあろう。伝道者・教職に限らず、「主の業」に励むキリスト者は、肉の生活においてパウロ同様、絶えず「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」を味わう。だが、主の地上での苦難の生涯が、被造世界に救済をもたらす復活によって栄光を受けたように、キリスト者は心の底で、神が「わたしたちに勝利を賜る」ことを知っているのである。今日はアドベントである。羊飼い達に告げられた「」は<飼葉桶に眠る>貧しく弱い乳飲み子であった。羊飼い達と共に私達も、地上に降られたこの御方にひれ伏し、神を讃美したい。