家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「私は道であり、真理であり、命である」

2021年9月26日

テキスト:ヨハネ伝14:1~14

讃美歌:162&525

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
1.弟子達への告別説教(13:1~17:26)
13章(最後の晩餐、洗足と弟子の裏切りの予告)
 前回は、ユダが出て行き、受難が後戻りできない形で開始したことを見届けたイエスが、「今や人の子は栄光を受けた」と語られた。それは同時に神が栄光をお受けになることである。そして神に栄光をもたらしたイエスに、「神御自身が栄光をお与えになる」と、御自分の復活を予告された。
 だがそれは、弟子達を遺してイエスが地上を去ることである。そこで彼らに「わたしはあなた方に新しい命令を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と、御自分の建てる新しい契約に基づく命令を言い残された。
 イエスが自分達を残して去ると言われるので、弟子達は不安になり、シモン・ペテロが「主よ、どこに行かれるのですか?」と尋ね、命がけでもお供しますと云ったが、イエスは、彼がその夜のうちに三度イエスを否認すると、人間的愛の無力さを告げられた。だが「わたしの行く所に、あなたは今ついて来る事はできないが、後でついて来ることになる」と、イエスの贖いの御業により彼が強められ殉教をも恐れぬ者とされることも予告された。
 しかし弟子達の困惑と不安はますます高まってきた。
14章(イエスが道であること、聖霊付与の約束)
(1)イエスは、神に至る道であること(14:1~14) 
 弟子達は、この時期にイエスエルサレム入城されたからには、何らかの大きな御業をなし、神の国を樹立されるに違いないと思っていた。だから、イエスが彼らを残して立ち去るといわれては、どんな事態になるか予測もつかず、自分達がどうなるか不安に陥ったのである。
 イエスは彼らに「心を騒がせるな。神を信じ、私を信じなさい」と言われた。幼児が親に信頼して身を任せているように、どんな事態であろうとも、神に、すなわちイエスに信頼していなさいと云う事である。神を信じるとは、イエスにあって私達に出会う神に信頼すること、すなわちイエスを信じる事である。イエスが去るのは、父の家すなわち神の御許に弟子達の居場所を用意するためであるという(2節)。人間が神と共にあることができるように、十字架の贖いの業を成し遂げる。これが、弟子達のために場所を用意することである。用意ができたら「戻ってきて、あなた方を私の元に迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる」と言われた(3節)。「戻ってきて」とは、終りの日の再臨ではなく、聖霊による臨在であると考えられる。エゼキエルが、神の霊が神殿を離れ、捕囚の民の元に宿られる幻を見たように、イエスの御霊が弟子達に来臨し彼らに伴われることを言われたのである。確かに終りの日まで、私達はイエスのお姿も知らず「神なしに」居なければならない。だが、主の御霊が臨在し励ましと導きを与え私達を支えて下さる。そして、全てに別れを告げる死の時も共に居て、私達を御許に迎え入れて下さると堅く信じている。「生きる時にも、死ぬ時にも」主の者である事が、私達のただ一つの慰めだからである。これから語られる聖霊付与の約束からしても、「こうして、私のいる所に、あなた方もいる」とは、聖霊による臨在を意味すると思われる。だが、弟子達はまだそれが分からなかった。
 だから4節「わたしがどこへ行くのか、その道をあたたがたは知っている」とのお言葉に、トマスが「主よ、どこに行かれるのか私達は分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」とお尋ねしたのは当然のことであった。
 イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」以下を語られた。<神顕現の言葉エゴー・エイミー>+<道、真理、命>の形式で、厳かに語られたのである。ユダヤ教は「律法」こそが神に至る道であるとする。だが、イエスは御自分の贖い(十字架の主を信じること)こそがただ一つの神に至る道であると宣言された。イエスの十字架と復活によらなければ、誰も神と偕なる永遠の命を受ける事ができない。パウロは「私達は、バプテスマによって、キリストと共に葬られ、その死に与る者となりました。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きる為なのです」(ロマ6:4)と語っている。その同じ事を、ヨハネ伝は「わたしは道であり」以下の言葉で表現している。「真理」とは、実体(リアリティ)といった意味であり、イエスこそが神の救いの実体であると云う事である。ちなみに、イエスの御名の意味は、「ヤーウェの救い」を意味する。
 7節「私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今から、あなた方は父を知る。いや、既に父を見ている」以下は、哲学で考えられるような「神」ではなく、抽象的な真理でもなく、イエス・キリストにおいて顕現された神こそが、唯一のイスラエルの神であることを言う。第9合唱のような「星空遠く居ます」神ではなく、人間を御自分の者とするために、人間イエスとして世に来臨し給うた神である。パスカルは「哲学者・知識人の神ではなく、イエス・キリストの神」と告白している。神はイエス・キリストにおいて罪人・病人・貧者の元に来たり、解放を告げ給うたからである。すなわち、私達にとって人間と世界を救う神とはイエスが啓示する神である。
 だが「父(神)を見る」とは、イザヤの見神(顕現)のような特別な体験だと思っていた弟子達は驚いた。ピリポが「主よ、私達に父をお示し下さい」と、そのような霊的能力を懇願した。するとイエスは「私を見た者は父を見たのだ」以下を語られた。イエスと父は一つであり、イエスは神によって語り働かれるからである。「私は父の内におり、父がわたしの内に居ますと、わたしが言うのを信じなさい。そうでなければ、業(奇跡など)そのものによって信じなさい」といわれた。イエスの行われる業が、神の救いの業だからである。
 そして荘重なアーメン言葉で12節「わたしを信じる者は、私がしているのと同じ業をする。いや、これよりも大きな業をするようになる。私が父のもとに行くからである」と言われた。「(わたしを)信じる」とは、1節と同じくイエスに信頼して自分を委ねることである。そうする人は、イエスが行われたように病人を癒やし、悪霊を追い出し、貧しい者に神の恵みを告げる働きを為す、と言われた。つまり、イエスを信じる者はイエスの働き(宣教)を為すと約束された。ルターが「キリスト者は互いに小キリストたれ」と教えているが、主が信仰者において働かれるからである。しかも「(=地上のイエスよりも大きな業をする」と約束された。それは、地上のイエスパレスチナの片隅で行われた業を、全世界規模で弟子達が行う事でもあるが、復活のイエスが神の右に位し、授けられた一切の権威を用いて働かれるからである。つまり弟子達において働くイエスは、闇の力に対し既に勝利された方だからである。現在、キリスト者の群れは小さく何の力もないように見える。だが、個々のキリスト者や教会自身の信念の力ではなく、世を統べ給う復活の主の御力が信仰者を用いて地上でのイエスの業よりも大きな業を行われる。それを信じるべきである。
 「また、あなた達が私の名によって求めることは何でも、わたしがそれをする。父が子によって栄光をお受けになるためである。あなた達が私の名によって求めることは、私がそれをする」(13・14節)と言われた。子供の頃、「イエス様のお名前によって」祈ることは何でも叶えられると教えられた。だが、これは「おまじない」ではない。「わたしの名によって」とは、地上のこの場で復活のイエスを代理して神に祈ることである。イエスが困窮者を憐れまれたように、困窮からの解放を願い、取りなしと救いを乞い求める事である。すると、天上天下一切の権威を授けられた復活の主が、父が栄光をお受けになるために、神の名代としてそれを叶えて下さる。弟子達は地上で主に代理して祈り、主は天上で神に代理してその祈りを叶える。主がそれをなさるのは、神を愛し神が栄光を受け給う事への熱心からである。14節で「私がそれをする」と繰り返しすのは、イエスを復活させた神の業を、以後は復活のイエスが神に代理して行い給う事を強調するからである。復活の主が神の名代として、世界と私達に働き、また終りの日に復活させて下さるのである。
 以上は、最後の晩餐の席で弟子達に語られた言葉そのものと言うより、弾圧とユダヤ教団からの追放で孤立する信仰共同体を、復活のイエスが励ましておられる言葉と聞くべきであろう。異教世界のただ中で、キリスト者達は「神なしで」しかも「神と共に」進んでいくからである。現代の非宗教的世界のただ中で、イエス・キリストこそ人間と世界の主であると証しつつ生きて行きたい。