2024年6月2日
テキスト:Ⅱコリント11:1~15
讃美歌:296&284
コリント人への第二の手紙
涙の書簡(Ⅱコリント10:1~13:13)
前回、聖霊の賜物であるカリスマに奢り、パウロの使徒としての資格を貶める者達に対し、「うわべのことだけ見ている」と叱咤したことを学んだ。「キリストのものであること」は付与された霊的能力の如何ではなく、キリストへの従順によって示されるからである。そして使徒の権威は当人の資格や能力ではなく、神が彼を用いて働かれるという事実、つまり神御自身の権威から来る。従って、パウロがいかに弱々しく人に侮られる有様であろうとも、エクレシア(信仰共同体)を「造り上げるために」主が彼に授けた「権威=破門」を行使する決意を伝えた。
この権威は、後の歴史においてあまりにも誤用されてきた。教会が世俗的権力を持ち、暴力で異端各派を弾圧・虐殺した事は、恥ずべき歴史である。しかしこの書簡執筆当時は、キリスト信仰はまだそのような権力を持っていなかったから、単に信仰共同体から追放するに過ぎない。だが人間というものは社会的動物であり、精神的基盤を同じくする共同体から疎外されることは、想像以上に厳しい処置であることは押さえて置きたい。
そして、パウロの権威の範囲として「神が割り当ててくださった範囲」を強調した。すなわち、コリント教会の指導は、初めてコリントに福音をもたらし教会を設立した者(パウロ)に委ねられているのであり、外から教会に来訪した伝道者(論敵)ではない。論敵らが自分の権威の拠り所として、霊的能力や資格を誇示したが、それは自分という人間を誇る自己推薦である。『誇る者は主を誇れ』と言われているように、特定の個人を通して働かれる神に従うべきであるから、「主から推薦される=用いられた実績」で判断すべきである。
また、エルサレムへの募金などをパウロが命じ指導するのは、①コリント教会が信仰的に成長し、②使徒の宣教活動を理解し支援するようになる事が本来的目的であり、決してパウロ一行の私欲のためではない、と切々と述べた。
そして、論敵らの批判に具体的に応えていく。
(2)愚かな誇りという仮面をつけて(11:1~12:13)
a.これから述べる愚かな自慢を我慢せよとの断り(11:1~4)
「1わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。 2あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。 3ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。 4なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」
1節。前段落で人間的資格や能力を誇ることは「愚かなことである」と述べてきたが、ここからは(論敵のように愚か者になって)パウロ自身の能力や資格を自慢する(誇る)つもりだがそれを我慢せよという。勿論、論敵らにそれを認めている「あなたがた」なんだから、当然認めるべきであろう、と皮肉る。そして2節で、したくもない自慢を敢えてする理由を嘆きつつ表明する。
2節の「熱い思い」は「熱心」とか「熱情」とか翻訳される言葉であり、対象に執着し何とかして結ばれようとする能動的意志である。男が女を恋慕うような能動的情熱といえば分かりやすい。旧約聖書では、神の人間に向かう心を表現している(申命記5:9等の「妬む神」や、エレミア31:20「私の心は彼(エフライム)を慕っている。私は必ず彼を憐れむ」など)。神は愛を求める男のように、人間に絶えず呼びかけてきた。福音も、人間の同意なしに勝手に救済するシステムではなく、宣教という人間を通した語りかけで受け入れられる事を求めるのである。神の熱情をコリントに伝えた伝道者パウロも、それと同じ熱情を彼らに対して抱いている。神と人の交わりを恋愛や結婚に譬えるのは、旧約聖書以来の伝統である。パウロもこの伝統を受け継ぎ、キリスト信仰に導いたことを、コリントの信徒達をまだ未熟で純潔な少女に譬え、最高の男性であるキリストに婚約させたと表現している。
3節。だが、愚かなエバが、たかが果物(神の如き知恵)くらいで誘惑されたように、つまらない霊的能力やちょっとした霊的陶酔などに心を動かされ、「キリストに対する真心と純潔」を失ってしまうのではないかとパウロは心配する(3節)。心配の根拠は、外から来訪した者達が「わたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエス」を宣べ伝え、「受けたことのない違った霊」「違った福音」を説いても、反発せずに受け入れているからである(4節)。
ちょうど恋愛において、相手の愛情や真心以上に、その財産や権力に惹かれるように、キリストにおける神の愛への感激と感謝以上に、付与される霊力や霊的エクスタシーに惹きつけられるなら、それは「キリストに対する真心と純潔」を失うことではないだろうか。ここまで読むと、論敵らの持ち込んだ「違った福音」は、後代のグノーシス主義に近いものだったように思える。何故なら、昔も今も私達人間は、現実世界の外に抽象的な真善美といった価値を求め、霊的世界へと脱出しようとする根強い傾向(自己追求)をもっているからである。神が受肉しこの地上に「神の支配=神の国」が実現するなど、全く予想することができない。人間は、一般に考えられている以上に、肉体的快楽よりもむしろ精神的解放を求め、「ここ(地上)より永久に」離脱することを願うものである。そのようなグノーシス派的発想では、キリストは単に人間を霊界へと導く媒介者に過ぎなくなってしまう。そうした人間的宗教では、一時的にでも宗教的陶酔(エクスタシー)に達した人は「解脱者」や「霊の人」とされ、崇拝の対象となるが、それ以外の大多数の人間はそうした人を媒介に霊的世界に憧れるだけの平信徒に留まる。(オーム真理教などを考えてみよう)。論敵らの説く信仰は、パウロの宣教したキリスト信仰を、こうした人間的宗教に変質させる「違った霊」であると使徒は判断する。この信仰的誘惑に対し、コリント教会にパウロの説く福音の純正さをどのように理解させられるだろうか?そこで、自己を誇る論敵の水準に立って、パウロ自身の資格がそれを上回ると語り始める。
b.論敵以上の資格があることの主張と、無報酬で働く「誇り」(11:6~15)
「5あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。 6たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。
7それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。 8わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。 9あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。 10わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。 11なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。」
5節。「あの大使徒たち」とは、霊的能力や資格を誇示する論敵らを皮肉った言葉である。本来、使徒に大小はなく、ただ与えられた任務と範囲がそれぞれ相違するだけである。それを人間的能力に見せかけること自体、誤りである。6節で、パウロは珍しく「知識=グノーシス」を誇っている。この世の知恵に対しては愚かである「十字架の言葉」に固執し、「宣教の愚かさ」に留まる使徒も、「信仰に成熟した人たちの間では知恵(知識)を語」った。「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵」でもなく「隠されていた、神秘としての神の知恵」である。たとえ訥弁であろうとも、語った内容(グノーシス)は「隠されていた、神秘としての神の知恵」であり、パウロはあらゆる機会に(説教や指導において)これをコリント教会に示してきたと言う。
7~9節、パウロが自活しながら、あるいは他の教会からの献金を用いても、コリントで無報酬で宣教した血の滲むような努力を語っている。そしてこれからもそうするつもりだと決意を述べる。献金で私腹を肥やしていると批判されて立腹し意地を張るからではない。コリント教会から献金を受け取れば、マケドニアからの献金のように宣教の支援であっても、論敵らと同じ立場に立ってしまうからである。「ただで受けたのだから、ただで与えよ」マタイ10:8とあるように、宣教は基本的に愛の奉仕である。コリント教会のためにこの立場を固持する。何故なら、キリストが敵対する罪人のために進んで命を捧げたように、使徒も叛くコリントの信徒達を愛するからである。「神がご存じです」の一言に、相手に通じなくとも真実を貫く心情が表現されていて胸打たれる。
「12わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。 13こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。 14だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 15だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」
12節。だから、今までどうりこれからも、コリント教会への指導を無報酬で行うとの決意するのは、誘惑者である論敵達との違いを強調するためである。13節~14節では、論敵らをハッキリとエバを誘惑したサタンのような「偽使徒」「ずる賢い働き手」と断じ、怒りを顕わにしている。
15節は、誘惑者である以上、きらびやかで心をそそる外見(光の天使)を装うことは当然であり、ルシファーが罰せられたような将来が待っていると述べる。
次回は、パウロが自分の労苦と艱難を誇ることが語られる。今日はここまで。