家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

十字架刑の執行

2022年3月20日

テキスト:ヨハネ伝19:16後半~27

讃美歌:272&355

                      B.救済者の天への帰還(13:1~20:31) 
2.受難と復活(18~21章)
 前回は、ユダヤ人達(サンヘドリン側)からイエスを引き渡されたピラトが、イエスを反ローマ的革命家とは思わず釈放しようと努めた事、その為に死刑執行前に行われる鞭打ちを処刑宣告前に行って、無力な姿を曝し叛乱扇動者ではあり得ないとした事、だが結局はユダヤ人側に押し切られてアントニア城中庭広場(ガバタ)で裁判の座に着いたことを読んだ。ピラトは「お前らの《王》を処刑していいのか?」と確認したが、祭司長達(サンヘドリン側)はあえて「皇帝のほかに私達には王はいない」と言って、自分達の「宗教」を脅かすイエスを断固として排除する意志を示した。言わば、地上的政治的権威と天上的霊的権威の分離並存を認めたといえる。この延長上に神学的「二つの王国」論が成り立っている。だが、イエスがピラトに言われたように地上的権威は範囲と時間場所を限って「上から与えられる」ものであり、真の支配者=バシレウスは神である。読み書きもできない無学な長崎キリシタン達も「真理に従えば力があり、従わねばわねば何の力もない」ことを証した。真の支配者は神であり、主イエスの支配である。この「真理」を心に刻みたい。
 今回は、十字架刑の執行である。
19章(ローマ側の裁判と処刑)
(4)十字架刑の執行(19:16~27)
a.道行き
 15節までの「彼ら」はユダヤ人達であるが、16節からは「彼ら=刑を執行する兵士」である。十字架刑に処せられる者は、自分が架けられる十字架の横木(縦木は刑場に用意されていた)を自ら運んで処刑場まで歩かされた。イエスも鞭打たれ茨の冠をかぶった姿のまま、アントニア城からエルサレム城門を出た外、つまり「都の外」のゴルゴダまで歩かれた。その道筋が所謂ヴィア・ドロローサVia Dolorosa「苦難の道」の意味)である。現在はエルサレム聖墳墓教会のある辺りとされている。マルコ伝やルカ伝はこの道行きでの出来事を伝えているがヨハネ伝記事には何もない。
 ゴルゴダアラム語(ヘブル語)で髑髏の意味であり、丸く小高い丘が髑髏の形に似ているところから名付けられた。ラテン語で髑髏は「カルヴァリアcalvaria」であり、そこから英語Calvaryとなった。讃美歌272番3節「カルバリーの丘にて…」とあるのはゴルゴダの丘の意味である。また、十字架刑は見せしめのための刑であったから、街道に沿った人通りの多い場所であった。
 イエスのほかに二人(おそらく「強盗=レステース」と呼ばれる革命家達)が、イエスを真ん中にして左右に磔にされた。記述はないが、復活のイエスがトマスに手の釘跡を見せたところから、手足を釘付けとする残酷な方法で吊されたことが分かる。ヨハネ伝の記述の簡潔である。だが、余りにも辛い体験をした者は、それを細かく具体的に説明できないものである。簡潔さはむしろ、それが直接現場で目撃した者の証言であることを偲ばせる。
b.罪状書き(INRI)
 ピラトは、イエスの十字架の縦木の上に「ユダヤ人の王」という罪状書きを掲げさせた。これはラテン語(ローマ公用語)、ギリシャ語(ヘレニズム的文化世界の通用語)、アラム語ユダヤ語)の三つの言語で記され、全世界の国民が読むことができた。つまり、政治的世界ローマ、文化的世界ヘレニズム、信仰的世界イスラエル、全て世界に対してイエスの身分を宣言したことになる。(ちなみに、よく絵画で十字架の上に「INRI」の文字があるのは、ラテン語Iesvs Nazarenvs Rex Ieudaeorvm=ナザレのイエスユダヤ人の王」の頭文字である)。罪状書きが三か国語で書かれたという記述はヨハネ伝だけであり、共観福音書にはない。だが、否定する根拠もないのでそのまま受け取っておきたい。
 ピラトとしては「ユダヤ人の王をローマが処刑する」と宣言したつもりであろる。祭司長達に押し切られた腹いせに、ローマの権威を振りかざしたのである。祭司長達はこれを「ユダヤ人の王と自称した」に変更して貰おうとしたが、ピラトは「私のしたことは、この私のしたことだ」と威張って押し切り、そのまま変更しなかった。
c.イエスの衣を分ける兵士達
 23・24節に、兵士達がイエスの外衣を四つに分け、下着は一枚の布だったのでくじ引きにした記述がある。受刑者一人につき4人の兵士が担当し、刑場までの警護、十字架の監視、死の確認という任務を果たした。それを警護する部隊が一人の百人隊長に率いられていた(マルコ15:39)ことが分かる。受刑者を釘付けするという残酷な仕事も担当兵士が行ったのであろう。その代わり、彼らが受刑者の衣類や持ち物を取る事を認めるのが、当時の習慣だった。共観福音書には「くじ引きで上着を分けた」とだけ記述されているが、ヨハネ伝は「①上着を分け合い②衣類のことでくじをひいた」(詩2:19,70人訳)の聖書予言の実現として、上着を分けた事と下着をくじ引きにした事の二つを詳述している。
d.イエスの母と愛弟子
 エスの母マリアが十字架の側にいたことを伝えるのはヨハネ伝だけである。そのほか4人の女と一人の男弟子、合計5人が十字架の側にいた。平行箇所であるマルコ15:40及びマタイ27:56と読み合わせると、「母の姉妹」は「サロメ」(マルコ)である。「ゼベダイの子らの母」(マタイ)とも読めるが、そうだとすればゼベダイの子(ヤコブヨハネ)はイエスと従兄弟同士の関係になる。「クロパの妻マリア」の「クロパ」という人物は、古代教会の伝承として、イエスの父ヨセフの兄弟であり、「主の兄弟ヤコブ」の次にエルサレム教会の主教となったシメオンの父としている。マグダラのマリアは全ての伝承で十字架の側、あるいは「遠くから」見まもっていた。そして唯一の男性として愛弟子がいる。成年の男性ならば、受刑者奪還の虞があるとして近づけなかったが、当時15・6才の少年であったから十字架の側に近づけたと考えられる。だが、十字架の側に誰がいたかが問題ではなく、イエスがその母を愛弟子に託されたことが肝心である。
 イエスは愛弟子を見て、母マリアに「女よ、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われ、愛弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。「神の子」としての立場から、母マリアに対しても一般の婦人と同様に「女よ」と呼びかけておられるが、長男として母を扶養すべき立場からそれを愛弟子に委ね、母を気遣われた。イエスの兄弟達も、ペンテコステ以後エルサレムに居を移し、以後、激しい迫害に逢うことになる。だから、エルサレム祭司階級出身で大祭司の知り合いであり、かつ年少者として迫害を避けることのできる彼に、母を託された。以後、愛弟子は母マリアを引き取って世話した。
 事実、62年に主の兄弟ヤコブが殺され、エルサレム教会はペレアに脱出するが、それより遙か以前、おそらく40年代ころには母マリアは愛弟子=長老ヨハネに伴われてエペソに脱出したと思われる。(トルコ旅行で、エペソにある、母マリアが晩年を過ごした家の跡に建てられたという聖母マリア教会の遺跡を見学した)。十二弟子ではなくとも、このようにイエスの母と生涯を共にした長老ヨハネが、イエス伝承の確実な継承者である事をヨハネ共同体は強調したいのである。重要なのは、イエスが十字架上で実際にこう言われたかどうかではなく、長老ヨハネがイエスの母マリアを最後まで世話し続けた事実であろう。
 ピラト、祭司長達、ローマ兵達の思惑が交差する様や、イエスが、長男を失うことになる母をきづかわれた事などを読むと、ここに記述されている人達が現在の私達と少しも変わらない、生々しい人間達であることが分かる。その中の一人のように、あるいは一人として、永遠の神の御子が「ナザレのイエス」として生きて下さった事が実感される。
 だが、イエスは私達の一人でありつつ、同時に全能の神の独り子であり給う。神の御子としての全能の御力をもって、神から完全に捨てられるという神の御意志に従い、呪いの十字架を担って下さった。彼のほかに、誰がそのような重荷を担いきれるだろうか。イエスの死は、人間の罪に対する神の完全な否であり、私達の罪のバニシングポイントである。
 そして、人間イエスの「死に至る迄の従順」という義によって、人間に「永遠の命」に至る道が開けた。イエスの十字架は、この偉大な転換点であり、イエスがその為に世に遣わされ、「私の時」として繰り返し語られた御業の遂行である。
 十字架につけられ給うた御方、キリスト・イエスを見上げ、日々、後ろのもの(自分)を忘れつつ、前(主イエスにある命という希望)に向かって前進して行きたい。