家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ユダヤ側裁判とペテロの否認

2022年2月6日

テキスト:ヨハネ伝18:15~27

讃美歌:243&445、

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
2.受難と復活(18~21章)
 前回は、ゲッセマネの園でのイエス捕縛を取り上げた。晩餐を終えた後、弟子達と静かな祈りの一時を過ごすのがイエス一行の習慣であった。エルサレム滞在中は、この園で夜を過ごされることをユダは知っていた。イエスを周囲に群衆のいない場所で、しかも密かに夜間に捕らえることを神殿側は狙っていたから、ユダの密告があれば直ちに、神殿警備隊だけでなくローマ正規軍の出動まで要請して捕縛に向かったのである。イエス本人を特定するため、ユダも同行したであろう。ローマ側が捕縛に関わったとするのはヨハネ伝だけである。だが、共観福音書は、ローマ帝国との軋轢を恐れて罪をユダヤ教側だけに押しつけた護教的意図からそれに触れなかったのではないか。過越祭の期間は最も民族的意識の高揚する時期であり、総督以下ローマ軍も騒乱を恐れて通常の駐屯地を離れエルサレムに駐在していた。イエス捕縛にローマ側が関与した事は十分考えられる。
 しかし、捕縛側が予想した抵抗もなく、ユダによるイエス本人特定も必要とせず、イエス自ら進み出て「わたしである=エゴー・エイミー」と名乗られ、弟子達の抵抗も禁じた。そして自分を捕らえた以上、弟子達を自由に去らすようにと要請された。捕縛劇の主体は、捕縛されるイエス御自身だったのである。
 今回は、ユダヤ側裁判とその間のペテロの否認である。
18章(イエスの逮捕と裁判)
(2)ユダヤ側裁判とペテロの否認(18:15~27)
 イエスを捕らえた以上、その取り巻きと小競り合いをして騒ぎを拡大する必要はない。弟子達に目もくれずにイエスをアンナス邸に引いて行った。残された弟子の内、シモン・ペテロと「もう一人の弟子=愛弟子・長老ヨハネ」が一行について行った。「もう一人の弟子」はアンナス邸に顔が利くので、そのままアンナス邸中庭に入っていった。だが、一介のガリラヤ人ペテロは門番に引き留められてしまった。そこで「もう一人の弟子」が門番の女に頼んでペテロを入れて貰った。当事者でなければ語れない具体的な内容である。そして「もう一人の弟子」が高位のエルサレム祭司階級出身である事が分かる。門番の女はペテロに「あなたも、あの人(捕らえられたイエスの弟子の一人ではないですか」と言った。ペテロは①「わたしは違う」と否定した。そして、中庭で焚き火にあたっていた。春先だが、夜は寒かったのである。アンナス邸は単に中継地であり、最終的にはサンヘドリンの会議場まで連行する予定であったから、捕縛にあたった者達は、そこで待機していた。ペテロは、彼らに紛れて様子を窺っていた。
 一方、ペトロと違って大祭司の知り合いである「もう一人の弟子」は、アンナスが取り調べにあたる様子を部屋に潜り込んで見聞きしていた。サンヘドリンの会議は議員以外の者は同席することは許されないが、予備審査なのでのぞき見が可能だった。アンナスはイエスに「弟子のことや教え」つまりメシアを自称して騒乱を起こそうとした容疑を問いただそうとした。イエスは、御自分は常に神殿や公開の場で語り、密かに語ったことは何もないと答えて、アンナスの問いを拒否された。すると、下役の一人が「大祭司に、何という口の利き方をするのか!」と、イエスを平手打ちした。イエスが大祭司の権威も恐れず堂々と応答されたことが、現世的権力にひれ伏すような生き方をしてきたこの下役の癇にさわったのであろう。そうした人物は、縛り上げられた者や弱い立場の者に対し、威張って振る舞うものである。また、イエスに対してというより、アンナスへの媚びへつらいであったといえる。勿論、アンナスの権威を借りて卑小な自分を大きくみせたい気持ちもあっただろう。いずれにせよ、イエス人間性に対する非常な侮辱であった。プライドのある普通の人間は、そのような卑劣下賤な輩を相手にせず無視するのが賢いやり方である。だがイエスは、この蔑むべき下役に対し、「正しい事を語ったわたしを、何故打つのか」とお応えになった。無視して馬鹿にするような事はせず、この下役の良心に語りかけ、彼に人間としてあるべき姿を想起させたのである。アンナスの問いを拒否しても、下役に対しては真実に応対されたのである。
 さてアンナスとしては、イエスの返答などどうでもよかった。弟子達を蜂起させることもなく、イエスの身柄を確保できた以上、本人がどう主張しようが、打ち合わせ通りメシア僭称の叛乱主導者としてローマに引き渡す予定であった。大祭司カヤパにはイエス逮捕を知らせ、計画通りサンヘドリン議会を取り急ぎ開催する準備をさせていた。予備審査を終え、イエスを縛ったまま大祭司カヤパの元に連行させた。
 サンヘドリン議会は議員以外の者が立ち入ることはできない。だから「もう一人の弟子」も、サンヘドリン議会、つまりカヤパの審問の模様については報告がない。いずれにせよ、結論はすでに決まっていたのである。
 一方、アンナス邸中庭のペテロである。周りにいた者達はペテロに「お前もあの男の弟子の一人ではないか」と、門番の女と同じ事を聞いた。ペテロはやはり同じ言葉で②「わたしは違う」と否認した。ところが、ペテロに耳を切り落とされたマルコスの身内の者が、「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか!」と告発した。自分の身内の男が抵抗に遭って、耳を切り落とされたのである。一際はっきりとペテロを見たであろう。しかし、ここまで追い詰められ正体が曝露されそうになったペテロは、三度それを打ち消して③「違う!」と叫んだ。その時、鶏が鳴いた。最後の晩餐の席で、イエスが予告された通りになったのである。
 共観福音書のペテロの否認記事と比較すると、ヨハネ伝の記載は非常に客観的である。ペテロの心情や、イエスが振り返ってペテロを見つめたとか、ペテロが逃げ出して激しく泣いたことなど何も触れられていない。報告者であるこの「もう一人の弟子」の目は、ひたとイエスの預言が実現した事にのみ向けられている。最後の晩餐の席で「裏切るのは誰ですか」と尋ね、彼にだけ分かるように、イエスがパンを浸して渡した「ユダ」が裏切った。イエスの為には生命も捨てますといったペテロに「今夜鶏が鳴く前に三度わたしを否認するだろう」と言われた。今、その予言が実現した! この騒動の中で、イエスだけが起こるべき事を全て見通しておられた。報告者=愛弟子の目はその事に集中している。全てを見通しておられたイエスは、御自分の意志に反して人の手に陥っておられるのではない。かえって、周囲の者達がそれぞれの思惑や、暴力的興奮に動かされている中で、一人毅然として御自分の進むべき道を主体的に歩んでおられる姿を浮き彫りにしている。それであるならば、イエスがその行動で目指しておられる事を、最後まで見届けねばならない。何か分からないが、重大な事が行われようとしている。もしかしたら、最後の最後に天の軍勢が降って御国をお立てになるのだろうか?また、もしかしたら、もっと驚天動地の事態が生起するのだろうか?ヨハネ伝報告者は、どこまでもこの事態の中で、イエスの主権性とイエスが目指しておられるものを指し示し続けて入る。
 「あるいは」or「もしかしたら」は、信仰の言葉である。哀歌で「口を塵につけよ。あるいは希望があるかも知れない」とある。「口を塵につける」とは絶望する事である。人間側には絶望しかない。希望する根拠は何もない。だが、もし神が憐れみを向けられるのなら…。
 神には自由に振る舞う権利と力がおありになる。人間が期待し、要求できることではない。だが神には自由でいまし給う。だから、もしかしたら、あるいは、…。
 この時点では、何か具体的な結末(例えば復活など)を期待してはいない。だが、理解できないままに、イエスが最後の晩餐の席で予告された事を思い返したであろう。「わたしが去る事は、あなた方の益になるのだ」(16:7)。だから、こんな事態になっても愛弟子は、その言葉に信頼し、イエスが目指しておられる結末を待っているのである。信じて待つ事は、その人を愛することである。
 こうしたイエスに信頼し、イエスと神の為されることを「待つ」態度が、この弟子を空虚な墓でペテロより先に「信じた」者とし、ガリラヤ湖畔で復活のイエスに最初に気づく者としたのである。
  私達もまだこの人生において希望の実現を見ていない。生老病死と「罪の法則」の混乱の中にいる。だが、主イエスの約束と聖書の証言を、信じて待つ者でありたい。