家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ユダの死と陶器師の畑

 

 

2020年2月9日

テキスト;マタイ伝27:3~10

讃美歌:241&249

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 前回は、ペテロの否認と、イエスがサンヘドリンの議決によりローマ総督ピラトに引き渡された事を読んだ。時間的には直ちに、祭司長らの告訴やピラトの審問が続くはずである。ところがマタイは、話をいったん中断し、ユダの後悔と死、ユダが投げ込んだ金で祭司長らが購入した土地の地名譚というエピソードを挿入している。今回はそれを取り上げる。
4. 大祭司の宮殿で(26:57~27:10)
4.6 三〇枚の銀貨(27:3~10)
 ユダの死に結びついた「アケルダマ=血の地所」という地名譚は、使徒行伝1:18~19にもある。だが、双方の違いはとても大きい。ここではユダの死は自殺だが、行伝では事故死(投信自殺?)であり、「血の畑」の「血」は、ここではイエスの血だが、行伝ではユダの血である。そして最後の旧約聖書の引用は、そのままでゼカリア書になく、エレミア書の連想と結びついている。しかもマタイが読んでいた七十人訳ではなくヘブル語聖書(マソラと言うそうである)の痕跡が残っている。そして、イエスの受難を預言と絡ませる意図が強く加わった特殊な引用となっている。従って、ユダの死と「アケルダマ」という地名を結びつける伝承が、イエスの死後相当早い時期に、エルサレム周辺で形成されたことが窺われる。マタイはそれを取り上げたのである。私達や教会は、ユダ本人や祭司長らからは疎遠であり史的事実は明確ではない。だから、マタイが伝えようとした意図を正確に受け止めるよう読んで行きたい。
 事柄① ユダは、サンヘドリンがイエスを有罪とした事を知り、後悔した。自分に金を支払った祭司長ら(一体どこに居たのか。大祭司邸、それとも神殿?)の所に行き「無辜(むこ=罪のないこと)の血をながさせた事で、私は罪を犯した!」(これは、イエスの無罪についての最初の証言である)と言って、受け取った銀貨三〇枚を返そうとした。ところが、イエス謀殺の主犯である祭司長らは冷たく「それが我々と何の関わりがある。お前自身が処理すべき問題だ!」と言って、彼を突き放した。ユダは銀貨を神殿に投げ込んで帰り、頸を吊って自殺した。
 事柄② 祭司長らはその金(どうしてユダが投げ込んだ金と分かったのか?)をとって、血の代価として汚れた金だから、神殿財庫に受け取れないとした。(彼らはイエス殺害を司法殺人と承知していたのだ!)そして、それで土地(アケルダム)を購入し、エルサレムで死んだよそ者用の墓地とした。
 ①ユダについて
 サンヘドリンがイエスを有罪としたことを知り、ユダは後悔した。彼は、イエスが反乱罪についても神聖冒瀆罪についても全く罪がない事を、十二使徒の一人であった以上、充分知っていた。それなら何故、イエスを引き渡したか色々と想像力をそそられ、文学や神学でも取り上げられてきた。しかし、私達はユダの裏切りと後悔を、他人事とは思えない。だからそれには立ち入らないことにする。
 祭司長らに突き放され、覆水盆に返らず、したことは取り返しがつかないを悟ったユダは、受け取った金を神殿に投げ入れ(何故、神殿なのか。イエスの死の責任は神にあるとでもいうのか。それとも、神殿体制に責任を投げかけたのか?)、帰って首吊り自殺した。首吊りは、死に値する犯罪者への神に定められた刑罰である(申命記21:22~23)。ユダは律法を知る者として、自分にその刑罰を与えたのであった。
 自殺が悪いとか絶望が悪いとか細かいことは言うまい。ユダの主な罪は、十二弟子の一人とユダを信頼したイエスを、裏切ったことである。では、裏切りは私達に無縁なものだろうか。ペテロも他の弟子たちもイエスを裏切った。ユダとの違いは、ただ積極的・意志的に裏切ったかどうかである。そうした積極的な裏切りも、ブルータス始め多くの事例がある。愛してくれた人や動物、親や家族、友人や仲間、を裏切った事がないかどうか、私達は自分の胸に聞いて見るべきである。イエスが、罪のない者が姦淫の女を石打ちにせよと言われた時、年配の者から始めて一人づつ群衆が去って行ったというヨハネ伝の記事がある。立ち去った者達の正直を見習うべきであろう。ユダの罪は私達自身が、状況や政治的判断から犯したかも知れない罪なのである。前回学んだように、イエスの贖いの力は私達に宿るどんな罪と汚れよりも大きく、それに打ち勝ち給うた事を信じて、心から十字架を仰ぐべきである。
 ②祭司長らについて
 彼らは、イエスの死が自分たちの企んだ「司法殺人」であることを十分知っていた。だが、政治的な思惑から罪のない人を殺害するなど、日常茶飯事である。戦争やテロ、板垣退助殺害やその他、いちいち枚挙しきれない。それが人殺しの罪だなども感じないのである。原爆投下やイランの司令官殺害など、むしろ戦争を終結させたとして誇っているくらいである。
 だが、祭司長らは律法の細かい規定については神経質であった。ユダの金は「血の代価」だから、遊女の稼ぎ同様汚れており、神殿財産に入れるわけには行かないとする。平然とイエスを謀殺し、こんなどうでもいいような些末な規定にこだわる姿は、イエスが批判された通り「蚋(ぶよ)は濾し、ラクダは呑み込む」(マタイ23:24)体制宗教家の偽善を明らかにしている。だから、自殺が悪いとか、些末な規定で他者や自分を断罪するのではなく、イエスが教えられた通り、律法で最も大切な規定①神を愛し敬い②他者を自分自身と同様に愛する、に基づいて自他の言動を顧みるべきである。そしてかくも罪にまみれ転倒した私達に、聖霊の導きと助けを切に祈り求めたいと思う。
 そして祭司長らのこうした鈍感で転倒した傲慢な姿の描写から、マタイがイエスの審判の報告を中断した意味が分かって来る。祭司長らは、以後のピラトの審問では積極的ながら脇役である。マタイはここで最後に、イエスの民(イスラエル)の指導者達が、あの葡萄畑の小作人らの譬え(マタイ21:33~44)の通りに振る舞ったっと、弾劾しているのである。
 なお、歴史的にはイエスの死についてサンヘドリンの正式議決はなされていない。大祭司アンナス(カヤパの舅、実力者)邸でのイエス審問から、福音書記者(マルコ)が構成したものとみられている。エルサレム陥落後、律法のみで民族的アイデンティティーを構築しようとした再建サンヘドリン(パリサイ派中心)は、キリスト教徒らを異端として激しく弾圧した。迫害を受けた福音書成立時代の教会のサンヘドリン批判を反映したものであろう。
 以上、今日は私達にとって暗く悲しい、人間の有様を思い知らされる箇所を学んだ。それに打ち勝たれた福音の力を堅く信じ、信仰に導かれつつ受難記事を読み進めて行きたい。