家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「渇く者は私から飲め!」イエスの呼びかけと姦淫の女

2021年1月10日

テキスト:ヨハネ伝7:37~8:11

賛美歌:322&294

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
  前回は、イエスの兄弟達、ユダヤ人(宗教的指導者達)、群衆、エルサレム住民達の、イエスへの無理解、誤解、敵意などの混乱を取り上げた。イエスは、その一つずつに真摯にお応えになられた。今回はその続きで、仮庵祭での出来事である。
(5)イエスをめぐるユダヤ人の混乱
d.生ける水の流れ(7:37~39)
 前回でも触れたように仮庵祭は農業祭でもあり、7日目には一年の恵みの雨を乞い求める雨乞いの祈りが捧げられた。おそらくその日であろう、イエスは立ち上がって叫んで言われた。ラビは通常椅子に座って教えるものであるが、それをわざわざ立ち上がって叫ばれたとは、特に大切なことを大勢の群衆に伝える為である。
 水は生命の源であり、植物だけでなく動物も体内の水分がなくなると渇きを覚える。そのように、人間の魂も自分を生かす生命の源(神)を慕い求めて渇きを覚える。今日歌った賛美歌は、涸れた谷で鹿が水を求めて叫ぶように、渇きを覚えて神を慕い求める魂を歌った詩篇42編から来ている。ほか、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るが良い」(イザヤ55:1)など、水を真実の生命の源になぞらえる例は数多い。水を乞い求めるこの大祭の祈りに応え、イエスはこのように呼びかけられたのである。「誰でも渇く者は私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているように、その人の腹から生きた水の川が流れ出るだろう(未来形)」。
  この「生きた水」とは、イエスを信じた者が受けることになる「聖霊」のことである、とヨハネ伝は説明している。イエスが昇天されてはじめて「聖霊」が信仰者に分け与えられるのであり、この時点ではイエスがまだ栄光(十字架死と復活・昇天)を受けておられなかったから未来形で語られた。つまり、イエスの血と肉を噛みしめ味わう信仰者に、聖霊が分け与えられ、信仰者の内で「永遠の生命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:14)ようになると、イエスは約束された。「腹」とは人間の生命の根源を司る栄養・生殖器官であり、その人の最も内奥の場である。そこに汲めども尽きず湧き上がり、溢れ流れる生命の水の泉(聖霊)が宿る、と約束されたのである。
 こうして、今まで様々のご自分への評価に真摯にお応えになってきたが、今度はイエスの方から積極的に人々に呼びかけられた。つべこべ言わず、魂に渇きを覚える者は誰でも、私に来なさい、私は豊かにあなたを恵むであろう。
 これ以降、8章では、イエスは積極的にご自分について説教される。
e.イエスへの群衆と指導者達の態度(7:39~52)
 これを聞いた群衆は、「この人は本当に『あの預言者』だ」とか「メシア」だとか言う者もいたし、反対に「ガリラヤ出のこの人はメシアであり得ない。メシアなら、ダビデの町ベツレヘムの出身の筈だ」と言う者もいて、互いの間に紛争が生じた。イエスを拘束しようとする者もいたが、誰も手出しはできなかった。ヨハネ伝はイエスベツレヘムで誕生されたことを強調しない。ダビデの血統であることやベツレヘムで誕生されたことよりもっと肝心なのは、イエスが「天から」来られた方であることだからである。群衆の間にイエスをめぐって分裂が生じたとは、イスラエルの民(ユダヤ教徒)がイエスを信じるヨハネ共同体等のキリスト教側と、イエスを拒むシナゴーグ側とに分裂したことを示している。
 そして、語っておられるイエスの神的威厳が、人々を圧倒した。イエス捕縛のため遣わされた神殿警備兵(下役達)も、畏怖して手出しができなかった。後のことになるが、ゲッセマネでのイエス捕縛に際し、イエスが「私である(エゴー・エイミー)」と進み出られると、その神顕現の威厳に圧倒された彼らは「地に倒れた」と記述されている。
 下役達がイエスを捕縛できず戻ってきたので、サンヘドリンの祭司長等は文句を言った。下役の言い訳は、イエスの言葉の内容ではなく「あのように語った」とイエスが語られる様子の神的威厳を理由としている。だが、祭司長等は「議員やパリサイ派律法学者達(つまり、ちゃんとした見識者)で彼を信じた者がいるか?律法を知らないお前ら群衆は詛われている」と、大衆への軽蔑と傲慢丸出しで返答した。サンヘドリンの一員で、以前イエスのもとに来たニコデモが「(異端裁判では)まず、本人の言い分を聴取した上で判断すべきではないか」と正当な意見を言ったが、それに対しても「お前もガリラヤ人か?(異邦人の地の)ガリラヤから預言者は出るものではない。聖書を調べて見ろ」と言うばかりであった。
《番外編:「姦淫の女とイエス》(7:53~8:11)
 さてここで、朗読されなかったが有名な「姦淫の女とイエス」の挿話を取り上げる。この伝承は非常に古く、二世紀初頭の教父達にも知られていた。だが、どの福音書にも採用されていないかった。ヨハネ伝成立以後、新約聖書の正典が選び出される中で、この伝承を正典の中に含ませることが試みられ、ルカ21:38の後に入れた写本も存在する。ヨハネ伝の初期有力写本は、この部分なしのものが大部分である。現行聖書に括弧付きで入れられているように、この箇所はかなり後代にヨハネ伝に挿入されたらしい。用語も異なるし、仮庵祭での出来事を記述する文脈からも浮いている。イエスがこの姦淫の女を罪に定めず行かせ給うたことから、8:15「私は誰をも裁かない」という言葉の実例として挿入されたものと考えられている。しかし、これは何と忘れがたい話であろう。ここに挿入され、正典として伝えられたことに感謝したい。
 (仮庵祭の)群衆はそれぞれ宿泊先に帰っていったが、イエスはオリブ山で夜を徹して祈られた。そして早朝また神殿に戻り、境内で教えておられた。そこに、姦淫の現場で捕らえられた女が連行されてきて、彼女を石打ちにすべきかどうかを問われた。告発者達がイエスを罠にかけようとする悪意は明らかである。「罪人の友」であるイエスが、石打ちせよといえば「罪人の友」ではないことになり、するなといえば律法を軽視することになる。女は哀れではあるが罪を犯した事実は逃れようもない。だが、告発者達も同じく、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩め」という神の命令からは遠くはなれ、人を貶める悪意に満ちた「罪人」達なのである。
 彼らの告発に対しイエスは何も言わず、かがみ込んで地面に文字を書いておられた。何を書いておられたかは謎であるが、エレミア17:13「あなたを離れる者は土に名をしるされます。それは生ける水の源である主を捨てたからです」が思い起こされる。しつこく問われるとイエスは立ち上がり「お前達の中で罪のない者がまず石を投げなさい」と言い、またかがみ込んで地面に文字を書き続けられた。
 この言葉に、勢い込んでいた群衆に動揺が走った。それまで彼らは、社会的な人間相互の関係から自分や他人を評価していた。姦淫の女に対しては、彼らは実に正しい道徳的立場に立っている。だがイエスは、そうした相対的な立場からではなく、絶対的な神の裁きの座の前にあるようにして自分を省み、罪がないと断言できる者から石を投げよと言われたのである。その結果、まず老人から始めて、人々は次第にその場を立ち去っていった。最後にイエスと姦淫の女だけがその場に残った。イエスは立ち上がって女に言われた「女よ、誰もあなたを罪に定めなかったのか」。女は「主よ、誰もいません」と答えた。イエスは「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう道を誤らないように」と言われた。ただイエスのみ、この女を裁く権威を持っておられる。しかし神は「罪人が滅びることではなく、立ち帰って生きること」を望む方である。律法によれば石打ち刑になるべき者を、イエスは断罪せず恵みによって「立ち帰って生きること」を命じられたのだ。
 イエスはこの罪の女に同情し、一方的に「えこひいき」されたのではない。神の前に罪人であることは、現場を押さえられたこの女だけではない。告発者達も同じである。イエスは彼ら双方を裁き給わない。ただ(告発者達の要請に応えて)、「神の前に」自分が何者かを省みてから他者を裁けと命じられた。そう言われ、告発者達は自分も神の前に罪人であることに気づいた。恥じ入り、人を裁く権威を神に帰して、彼らは立ち去った。イエスの在ます処、かく恵みが支配する。
 年が改まり、私達も今までの来し方を振り返える機会があった。社会や家庭の人間関係の中だけでなく(それらは過ぎ去るものである)、自分の創り主の前に省みて、誰が恥じ入らずにいられるだろうか。「私は愚かで悟りがなく、あなたに対し獣のようでありました」(詩篇73:22)とは、来し方を振り返る信仰者の偽らざる実感であろう。神の赦しと憐れみあってこそ、今日の自分がある。
 この詩篇の詩人は、かつて羨んだ現世的成功や幸運が夢幻のごとくはかないものだったことを思う。それに引き較べ、神の護りと導きは絶えず自分を支え続けて下さった。思えば、この地上で慕うべき真実な方はただ神だけであり、天に憧れ望むのも神の真実以外にはない。神が自分をこれからも護り導いて下さることに彼は信頼して言う「あなたはさとしをもって私を導き、その後私を受けて栄光にあずからせられる」。この世にあっては神に導かれ、旅路の果てに神に憩う希望に励まされる。やがて迎える老いと死について「わが身とわが心は衰える。しかし神は永久にわが心の力、わが嗣業である」と、喜びと確信に満ちて神を讃美するのである。神が共にいて下さることは、なんという幸福であろう。
 今年も、私達は色々なこと体験しつつ生きることだろう。しかしこの詩篇にあるように「神に近くあること」を教えられつつ、神に信頼し、御言葉に導かれて歩んでいきたい。