家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ピラトの審問

2022年2月20日

テキスト:ヨハネ伝18:28~38

讃美歌:187&355

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
2.受難と復活(18~21章)
 前回は、ユダヤ側裁判とそれに付随するペテロの否認を取り上げた。ユダヤ側裁判としては、ラザロの復活以降、いや増しに高まったイエスへの「メシア」期待に対し、騒乱を恐れるサンへドリン側の思惑、つまりカヤパの言葉に象徴されているように、宗教的罪科の有無ではなく、治安維持のためイエスを殺害排除する意図に従い、サンヘドリンの判決が下された次第を観てきた。要するに、政治的殺人である。これは、イエスがあらかじめ御自分がユダヤ人達に殺害されると予告された通りであった。最後の晩餐では、イエスへの忠誠に溢れたペテロに「今夜鶏が鳴く前に、三度」イエスを否認することを予告された。それは、直ちに数時間後に実現したのである。ヨハネ伝記者の記述は、人間側の思惑をすべて見通し、その上でなおかつ、御自分が選び取った道を決然と進まれるイエスの姿を強調している。イエスの捕縛・裁判を通して、イエス御自身が進んでこの事態を受け入れ行動されているのである。この先には、神の呪いと審判の徴である十字架の死が待ち受けている。これに対し「父の与え給う杯は、飲むべきである」とイエスは言われた。御自分の存在が、神と人間を結ぶ絆であることをイエスは知っておられる。そのイエスが、神からの厳しい裁きを受けるということ、これは人間全体が神に裁かれ捨てられるということである。人間の代表としてイエスは苦悶された。だが、彼が父を愛し死に至るまで従順を貫かれたことが、父が意図されたとおり人間が永遠の生命を受ける道を開いたのである。ヨハネ伝は、イエスが自ら進んで父が示された十字架への道を進まれたことを強調し、彼が「御自分の者」とされた者達の為に(彼らが永遠の生命を受ける為に)どんな大きな事をして下さったかを示そうとしている。
 今回はピラトの審問である。
18章(イエスの逮捕と裁判)
(3)ローマ総督による裁判(18:28~38)
 夜明けと同時に開かれたサンヘドリンの判決は、当然、もう結論が決まっていた。宗教的罪科の有無などこじつければすむのである。また、議員以外は同席を認められないから裁判の様子は弟子や関係者が見聞きできなかった。共観福音書ユダヤ側裁判記事は、その点からかなり創作の可能性が高い。さて、ユダヤ側としては宗教的罪科で有罪とすれば、イエスを信奉する民衆の反発が恐ろしかった。是非とも、政治的叛乱主導者としてローマ側に処刑してもらう必要があった。サンヘドリン議決を経て、慌ただしくまだ早朝の内に、ローマ側にイエスを突き出した。
 パレスチナを含むシリア州のローマ総督官邸(総督府)はカイザリアにあったが、民族意識の高揚する大祭時には、騒乱を抑えるため、エルサレムの神殿北側のアントニア砦(ベテスダ池近く)にローマ軍が駐屯していた。ピラトはここ、またはヘロデ宮殿どちらかに滞在していたと思われる。
 ヨハネ伝では最後の晩餐は過越祭りの前日とされており、イエスの裁判は夜明けであるから、その日の夜にユダヤ人達は過越の食事を摂る筈であった。ピラトという異邦人の家に入れば、宗教的汚れとなり、過越の食事に参列できない。そこで、ピラトがわざわざ外に出てきてユダヤ人の訴えを聞くはめになった。ユダヤ人嫌いの彼にしてみれば、煩わしいことこの上ない。不機嫌に、何の訴えかと尋ねた。ユダヤ人達は「この男が悪事を働く者でなかったら、あなたに引き渡すことはない」と答えた。ピラトは、ユダヤ側には一応の警察権があるのだから、ユダヤ人自身が自分達の律法で処分すればいいだろう、と言った。なんで俺様を煩わせるのか(どうせ、ユダヤ人達同士のゴタゴタだろう)という気持ちが見え見えである。だが、ユダヤ人達は自分達には死刑執行権がないと応えた。「死刑執行権」であるが、ローマから認められた「領主」には死刑執行権があり、ガリラヤ領主、ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを斬首している。また、後にユダヤ「王」と認められたヘロデ・アグリッパもゼベダイの子ヤコブを逮捕処刑している。だが、6年の叛乱以後、ユダヤは総督直轄領となっており、死刑執行権をユダヤ側に認めていなかった。親ローマ派ユダヤ人が愛国的ユダヤ人達から殺害されることを恐れたと思われる。
 いずれにせよ、死刑執行権がないというユダヤ側言い分は、イエスを石打ちでなく政治犯として十字架刑にしようとする、彼らの強い意志を示している。32節「それは、御自分がどのような死に方で死ぬ事になるかを示そうとして語られたイエスの言葉が成就するためであった」。
 エルサレム入城された際、ギリシャ人達が面会を求めてきた。イエスは「人の子が栄光を受ける時」が来たと言われ、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と言って、御自分がどのような死を遂げるか予告された(12:32~33)。ヨハネ伝記者は、その予言の実現を指摘しているのである。なお、「地上から上げられる」とは、①復活して天に昇られる、②十字架につけられて地面から引き離される、の二重の意味があることは言うまでもない。
 33節以降は、官邸内でのピラトとイエスの対話形式になっている。だが、ローマの裁判は公開が原則であった。「お前はユダヤ人の王なのか?」「そういうのはあなただ」というピラトとイエスのやりとりは大勢が聞いて伝承されている。だから、官邸内での二人の対話はこの伝承に基づきヨハネ福音書記者が創作したものと考えられる。
 ピラトは勿論、政治的叛乱主導者としての「王=メシア」僭称者か、と尋ねたのである。だが、イエスは伝承された「そういうのはあなただ」よりやや詳しく、ピラトが自分でそう判断するのか、それとも第三者(他の人)からの告訴か、を尋ね返された。ピラトはいらついて、「わたしはユダヤ人か!」つまり、ユダヤ人でもない自分がお前を「王」と認めるはずがないだろうと自分の判断である事を否定し、「(お前の同胞である)祭司長達がお前を私に引き渡したのだ。一体何をしたのか?」と、叛乱扇動の容疑認否を尋ねた。ピラトにとって、ローマ支配に背こうとしたかどうかだけが問題であり、自分の目の前にいるイエスが本当はどんな御方であるかなど眼中にないのである。 イエスは36節「わたしの国(バシレイア=支配)はこの世のものではない」以下を語られた。神の支配(バシレイア)は時間的・政治的に限定されたものではないように、イエスの国=バシレイア・支配も代々限りなく続く支配だからである。もし、(ピラトが考えているような)地上的政治的支配なら、部下達はイエスを渡すまいとして戦ったであろう。だが、事実、イエスの支配はそのような限定された地上的政治的支配ではないのである。
 ピラトは、罪状認否の結論を急ぎ「では、お前は王《バシレウス=支配する者》なのだな?」と確認した。イエスは「《バシレウス》というのはあなただ」と、その支配がイエスのいう真の支配であるか、それともピラトが考える地上的・政治的支配であるかの判断を、ピラト自身の判断に任せられた。十字架刑を目前にしても恐れず、真の王者として威厳ある態度でピラトに応えられた。そして、「私は真理に証をするために生まれ、その為にこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聴く」と言われた。「真理」とは、創造者なる神が世を支配されること、その支配は、その独り子を被造物である人間の一人とするまでに被造物・人間を愛し、御自分に結びつけられる支配である。万物・人間は、決して虚無の空間に放り出された存在ではない。一人一人の人間を存在へと呼び出された神は、御自分との関係の中に人間が自分自身を認識し、神の愛の支配の中に自分を位置づける事を求めておられる。この真理を証するために、イエスは世に生まれ出て下さった。自分自身の生の意味は何かを真剣に問うような人、つまりこのような真理を求め、それに従う人は皆、イエスの呼びかけ(お前は神のもの、神はお前の神)を聴くのである。
 このような言葉は、ピラトに対してではなく、ヨハネ伝記者の読者への呼びかけ、説教である。ピラトは、こんなことを言われても何の事やらさっぱりわからなかっただろう。だから、イエスに「《真理》とはなにか?(何をいっているんだ!)」と言った。だが、なんとなくイエスが政治的叛乱先導者ではなく、むしろ宗教家でありユダヤ教内部の信仰的争いから敵対する派閥によって、ローマ側に引き渡されのだろうと思ったのではないか。宗教的争いにローマ総督の自分を利用しようとは、いけ好かない。ピラトは、こんな宗教狂いでしたたかなユダヤ人達に嫌気がさしたであろう。
 今日は、この世の支配者ピラトの面前で、真の支配者=バシレウス(王)として、イエスが真理につき立派な証を立てられた事を学んだ。パウロは愛弟子テモテに「ポンテオ・ピラトの面前で立派な証をなさったキリスト・イエスのみまえで」厳かに主の戒めを守り抜く事を命じている。私達も主イエスが真理を証されたお姿を見上げ、世俗の荒波に流されることなく信仰の戦いに立ち返るものでありたい。