家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「人の子」が上げられる時

2021年7月18日

テキスト:ヨハネ伝12:28~37

讃美歌:304&326

      A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)
3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
(9)エルサレム入り(12:1~36)
 前回は、「一粒の麦」の譬えとそれに続く教えを、イエスの弟子達に対するものとして学んだ。すなわち、弟子である「一粒の麦」が、時空に限定された自分の魂的命(プシュケー)をイエスに献げる事が「地に落ちて死ぬ」であり、それがイエスと共に時空を超越した四次元的・霊的命(ゾーエー=永遠の命)に生きるという「多くの実を結ぶ」に至らせるのである。だがそれは、地上での生涯を、迫害や自分の「情と欲」との戦いにする。それだけでなく、この世の生をイエスに引き渡したからには、地上でイエスが行われたとおり、弟子達も報いを求めないで神と隣人に仕えねばならない。とはいえ、勝利者エスに担われ、慰めと力を与えられつつ、彼と共に為歩むのである。だから、実際にはイエスが弟子達に与える「軛は負い易く、その荷は軽い」。
 だが、これらの祝福が実現するためには、イエスはまずその民に代理して神の激しい怒りの杯=十字架の死を受けねばならない。その恐ろしさと苦しみを正しく知り得る神の御子であるからこそ、イエスは恐怖された。しかし御自分が世に遣わされた使命を想起してそれを克服され、「御名を崇めさせ給え=栄光を現して下さい」と祈られたのであった。主の祈りの第一祷は、父に対する御子の、これ程の献身の祈りなのである。
 その祈りに応じて、天からの声が響いた。
f.「人の子」の上げられる時-2
 この「わたしは既に栄光を現した(過去形)。さらに現すであろう(未来形)」という天からの声は、既に数々の徴で示したとおり、神はイエスの死と復活の出来事によって救済の御業を実現させるであろうとの意味である。「響いた」といっても、耳にではなく霊的伝達である。だが、言葉を聞き取れなかった者にも、雷鳴のような衝撃を与え、聴き取れた者達は天使の語りかけだと思った。
 イエスの祈りに応えてと言っても、イエス御自身には御自分の地上の働きが神の栄光の為である事は自明である。だから、これ(天からの声)は、弟子達の為に語られたのだと言われた。共観福音書は、「山上の変貌」の出来事が、主だった弟子達にイエスの御子性を体験させたとする。だがヨハネ伝は、この天からの声が、主だった弟子達だけでなく周囲にいた者達全てに、それぞれイエスについて証をしたとする。どちらにせよ、こうしてあらかじめイエスの神性(御子性)の証を体験した事が、受難から復活までの暗黒の中で、弟子達を支えたのである。
 イエスは「今や、この世の裁きの時である。今こそ、この世の支配者は外に投げ捨てられるであろう」(31節)と言われた。「この世」すなわち生まれながらの人間が体験する世界は、絶えず飛び去り変化する時間と空間に限定されている。世界をそのようなものにしたのは「神のようになろう」とする人間の高慢であり、死と滅びはそれに対する正当な罰である。だが、神はそのような世界にも命を誕生させ、太陽を上らせ雨を降らせて存在を支え続けておられる。ところが、神に逆らう天使(悪魔)は神の被造物の滅亡を喜び、滅ぼす力は神の権威からくるのに、世界(この世)を死によって支配する者として振る舞っている。神が、人間の罪に対する怒りと裁きを、人間自身にではなく、彼らを代理する御子イエスに下されるという事は、悪魔(闇の勢力)からその権能を奪い取る事である。彼らは、神への敵意に対する裁きとしてその権能を奪われ、虚無に突き落とされる。神からの支えを失うことが、聖書に言う「外に投げ捨てられる」ことである。
 イエスは続けて「わたしが地から上げられるならば、すべての人をわたしのもとに引き寄せるであろう」(32節)と約束された。「地から上げられる」には、①十字架に上げられる、②復活して天に引き上げられる、の二重の意味がある。①によって御自分がどのような死に方をするかを、弟子達に暗に示し、同時に②によって神の栄光の座に上られる事を予告されたのである。それが実現したら、(選民イスラエルだけでなく)すべての人を、御自分が栄光の座につく天に引き寄せる、と約束された。ここに始めて、「諸国の民」が救済の対象であると明言されたのである。
 ところが、地上的栄光のメシアしか望んでいなかったユダヤ人群衆には、(十字架で地から)「上げられ」自分達から引き離されるメシア=「人の子」なんて、理解不能で受け入れ難いものであった。だから、何でそんなことを言うのかと質問の形でイエスに言葉を返した。そんな「人の子」とは、何者ですか!
 彼らが、メシアの永生の根拠として「律法」とは、旧約聖書全体のことである。旧約聖書自体ににそのような記載はないが、(ダビデの座の)「永遠の支配」等の文言からそう解釈したのである。
 群衆の質問は、イエスの語られたことへの無理解というより、反抗であった。イエスはそれに一言もお答えにならず、「まだしばらく、光はあなた達の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分からない.光の子となるために、光のあるうちに、光の中に信じて入りなさい」(35~36節前半)と云われ、「立ち去って、彼らから身を隠された」(36節後半)。
 イエスは、御自分がまだ世にあって語っている今のうちに、それを信じて信仰に入るようにと、群衆を諭されたのである。光が失われたならば、暗闇の中に取り残され、滅亡へと突き進むことになる。ここで、70年のユダヤ戦争の悲惨な結末を思い起こさずにはいられない。ユダヤ愛国者達は、救国のつもりで自分と国家を滅ぼしてしまった。民族だけでなく個人の運命においても同じである。だからまだ神の言葉(光)が語られているうちに、それを信じて信仰に入るようにとの勧告である。ヨハネ伝著者は、読者に対し、取り返しのつかない結末を迎える前に、イエスを信じてキリスト教信仰に入るようにと語っているのである。
 「彼らから身を隠された」との記述は、8章59節(「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」と語って石撃ちされそうになった記事)にもある。群衆は、反ローマ的軍事的メシアを期待して、殺気立ってイエスに迫ったのであろう。これが、ホザンナの歓呼でイエスを迎えた人々の本音であった。神の御意志ではなく、自分達の要求(期待)の実現をイエスに迫ったのである。
 これ以降、イエスはもはやユダヤ人群衆に直接語ることはされず、弟子達に「奥義」を語られる。
(10)前半部分の使信の要約(12:37~50)
a.(選民)ユダヤ人の不信仰(12:37~43)
 ヨハネ伝前半(2~12章)は、イエスの奇跡集を資料として構成されたとされる。その記述は、「これ程多くの徴を見てもユダヤ人達はイエスを信じなかった」(37節)と締めくくられ、その理由(ユダヤ人達が信じないこと=頑なさの理由)を、「預言者イザヤの預言が実現するためであった」(38節前半)としている。
 キリスト教信仰が広まる中、選民たるユダヤ人達の不信仰はキリスト者にとって大きな謎であった。主御自身がユダヤ人であり、その宣教はまずユダヤ人を対象とされた。同じく使徒達もユダヤ人であり、イエスこそ聖書(旧約)に証されたメシアであると、正統イスラエル信仰に基づいて宣教してきた。それだのに、ユダヤ人達自身がそれを信じないのは何故であろうか?また、エルサレム陥落という破局的大事件が起きたのは、彼らの不信仰に対する罰なのだろうか?つまり「神は、その民イスラエルを捨てられたのであろうか?」との問いを誰もが抱いた。これは、次の二つの躓きを招く虞がある。①預言者達の語った「神の真実」への懐疑、②自分達こそイスラエルに取って代わる「新しい選民」なりと教会を高慢にする虞、である。歴史的には、キリスト教会はユダヤ人を迫害し、「新しい選民」として高慢に振る舞った事実は否めない。その反省にたつ現代の教会にとっても、ユダヤ教信仰とキリスト教信仰の関わりをどう捉えるかは真剣な問題である。
 次回は、ユダヤ人が不信仰にされた理由について、引用の箇所から少し丁寧に学んでみたい。