家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イザヤの預言の実現

2021年8月1日

テキスト:ヨハネ伝12:37~43

讃美歌:1&228

        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)


3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
 前回の終りに、ヨハネ伝前半(2~12章)のイエスの地上での活動の記述のまとめとして、「これ程多くの徴を見てもユダヤ人達はイエスを信じなかった」(37節)とし、それは「預言者イザヤの預言が実現するためであった」(38節前半)としていることを取り上げた。そして、それを神によるイスラエルの棄却と解釈した場合の問題点も指摘し、これ(ユダヤ人達の不信仰はイザヤの預言の実現である事)が私達に何を語っているのか、少し丁寧に検討したいとした。
 それは単純にユダヤ人達の不信仰への非難ではなく、福音の証明として語られているからである。だが、歴史的教会はユダヤ人達が神から棄却されたと見る過ちを犯してきた。私達自身も、ユダヤ人達が頑なにされたのは、神からの罰あるいは呪いと読んでしまいがちである。
 今回は、このテキスト(37~43節)を、私達に対する福音の証として読み直したい。
(10)前半部分の使信の要約(12:37~50)
a.(選民)ユダヤ人の不信仰(12:37~43)-2
 まず、パウロがロマ書11章1節で「神は御自分の民イスラエルを退けられたのであろうか」という問いに対し「けっしてそうではない」(ロマ11:1)と否定していることを踏まえたい。その証拠として、パウロは彼自身がユダヤ人である事を挙げ、預言者エリヤに「バアルにひざまずかなかった七千人」が示されたように、現在でも恵みによって選ばれたユダヤキリスト者が残っているとする(事実、原始教会はユダヤキリスト者から始まった)。恵みである以上、行いや選民たる資格によるのではない事を強調し、新しく神の民とされた異邦人キリスト者に対し「高ぶった思いを抱かず、むしろ畏れなさい」と云う。そして最後に、「一部のイスラエル人が頑なになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われる」(11:25&26)という、驚くべき「奥義」を示している。これはまだ実現を見ていないが、教会がユダヤ教との関わりにおいて確信し、待望すべき事柄であることを頭に置いておこう。
 その上で、今回のテキストを読んでいきたい。
 まず、イザヤ書53:1が引用される「誰が私達の聞いた事(知らせ)を信じ得たか。主の腕は、誰に現れたか」。これは有名な「苦難の僕」の歌である。初期教会はこの「苦難の僕」をイエスの預言と見た。メシアである「主の僕」は、「侮られて人に捨てられ」、同時代の人々に尊ばれなかった。彼は、全ての者の不義を負い、暴虐な裁きによって殺害される。その宣教は人に受け入れられなかった。だが、彼はその死後に永遠の命を得、「多くの子ら」を与えられる。神の御旨が彼の手によって栄える。つまり、彼がメシアであり、その苦難は全ての人の救済の為であったと人々が分かるのは、その死後、神が彼に「永遠の命」と「多くの子ら」を与えてからである。だから、イエスの地上での御業(徴=奇跡)を見てもユダヤ人達が信じなかったのは、イエスがイザヤが預言した「苦難の僕」たるメシアである証拠だとする。(エマオで復活の主が「メシアは必ず苦難を受け、栄光に入る筈ではないか」と弟子達に聖書を解き明かされたのは、この箇所ではないだろうか。)
 以上は、メシア自身の徴だが、次に、宣教の対象者たる「彼ら=選民ユダヤ人」が不信仰になった理由として、イザヤ6:1から「神は、彼らの目をみえなくし、その心を頑なにされた。こうして彼らは眼で見ることなく、心で悟らず、立ち返らない。わたしも彼らを癒やさない」(原文の命令形を叙述形に変更した自由な引用)を提示する。つまり、ユダヤ人達は、神の御意志によって頑な(不信仰)にされたと言うのである。
 以上は、マルコ伝4:12、使徒行伝28:26&27にも同様の記述があり、初期教会共通の認識である。
 では、神がユダヤ人達を「頑な=不信仰」とされたことが、何故、「心が燃える」ような福音の徴なのか。それは、イスラエルの歴史と預言者イザヤの信仰の関わりを踏まえないと理解できない。
 イザヤはBC740~700頃活躍した南王国ユダの預言者である。彼がエルサレム神殿で神の顕現にあい、同時に預言者として召命を受けた記事は、旧約聖書中もっとも劇的で印象的な場面である。彼は召命に際し、預言して「民を頑なにせよ」との不思議な命令を受けた。それは何時までですかとのイザヤの問いに対し、国土が荒れ果てて廃墟となるまでとの答えがあった。これは、神の言葉を民に伝達するという預言者の職務に失敗し、その民の背きが国土の荒廃という結果をもたらすようにせよという事である。事実、「静かにして(人間側から何もしないで)、神の為される救いを見よ」とのイザヤの預言は、現実の政治情勢に「神風に期待し、米英連合軍に降伏するな」というようなものであり、為政者(王)に取り上げられなかった。彼らは、現実的理性に従って行動した(強国に屈服し、莫大な賠償金を支払った)。だが、その結果は後のバビロン捕囚という亡国の事態に結びつく。イザヤは神の言葉に背く民に絶望し、預言の成就を将来に託すために、それを巻物に記述して後代に残した(彼は、最初の記述預言者である)。しかし彼は、神のイスラエルに対する憐れみ(真実)については決して絶望しなかった。彼は、今は民に顔を隠しておられる「隠れています神」に信頼し、将来の主の救済に希望をおいた(8:17)。イザヤは、民の不信仰(頑なさ)と亡国を、神の見捨てとしてではなく、むしろ神の新しい驚くべき救済の業の前提と見たのである。ここに、ロマ11:32「神は全ての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」が重なって思い起こされる。
 かつて神は、民の信仰がただ慣習による表面的なものであると指摘し、イザヤにこう告げられた「それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべき業を行う、それは不思議な驚くべき業である」(29:14)。「再び」とあるのは、モーセ契約の基となったエジプト脱出を上回る、新しい契約の基となる業(救済)を行うという意味である。つまり、人間側の信仰が口先だけの慣習的なものであるなら、それ(人間の不信仰=不義)を前提とし、それを覆す「義ならざる者を義とする」つまり罪人を義とする神の「不思議な驚くべき」業を為す、と約束された。それが、「死に至るまでの従順」によって神と人との契約(律法)を完成された「苦難の僕」=人となられた神の御子イエスによる救済であった。この事が、ヨハネ伝著者の胸に深く落ちたのである。
 つまり、キリスト者を迫害するユダヤ人達の「頑なさ」と、エルサレム陥落による亡国の事態は、イスラエルに対する神の棄却ではなく、かえってイザヤが預言し希望した「イスラエルの残りの者」の救済、及び神の「不思議な驚くべき」業の「実現の証」と見たのである。これに「心が燃えて」著者は、イザヤが見た「ヤーウェの栄光」は「イエスの栄光」であったと云う。これは、民に絶望して神に希望を抱いたイザヤの信仰を受け継ぐ者、すなわち「ユダヤ人」の目である。
 民全体としては「頑な」にされても、イザヤに「わたしに賜った子ら」=弟子達が存在し、エリヤに「バールに膝を屈めない七千人」が示されたように、現在でも「イスラエルの残りの者達」が存在する。著者は、イスラエルに対する神の真実の徴として現在の「隠された七千人イスラエルの残りの者」の存在を確信する。イエス当時にも、サンヘドリンの議員でさえイエスを信じる者が多かったとの記述(42節前半)は、この確信(現在のユダヤ教団内部にも「エスを信じる者達」が存在するという)の表明であり、ユダヤ人達に対する期待と希望の表明である。
 42節後半~43節は、こうした「隠れキリシタン達」に「人からの誉れ」でなく「神からの誉れ」を重んじて信仰を表明するようにと勧めている。
 今日のテキストを、単に過去の預言がイエス・キリストを証しているとだけ読み取るのでは足りない。私達の傍らに今も「ユダヤ人達」が存在している事をも、神が世界を終末に向けて導いておられる「生きた徴」と見るべきであろう。私達は、新旧両約の「証人達」と共に、「遂に一人の羊飼い一つの群れとなる神の国の完成を、信じて待ち望んでいるからである。