家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「一粒の麦」の譬え

2021年7月4日

テキスト:ヨハネ伝12:24~28

讃美歌:309&525

       A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
(9)エルサレム入り(12:1~36)
 前回は、イエスエルサレム入城を取り上げた。過越際を5日後に控えたこの時期、民衆の宗教的愛国心とラザロを復活させたイエスへのメシア期待は頂点に達し、大勢の人々がホザンナの歓呼を上げてイエス一行のエルサレム入城を出迎えた。だが、この歓迎ぶりを見たイエスは、わざわざ「子ロバ」に騎乗してエルサレム入りされた。これは、御自分が民衆が期待する政治的メシアではなく、ゼカリアの預言する王的メシア=民の罪を担う「苦難の僕」であることを示す預言行為であった。その意味を弟子達はその時は分からなかった。だが、イエスの復活・昇天の後に降臨した聖霊が、それを彼らに「思い起こさせた」のである。
 ここに、「数人のギリシャ人達」が「神を敬う」異邦人としてイエスに面会を求めて来た。彼らをみて見て、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た!」と言われた。ゼカリアの預言するメシアは、ユダヤ人だけの王ではなく、「その支配は海から海に及ぶ」全世界の支配者であり、「諸国の民」に平和を告げる者である。イエスは、彼らに「諸国の民」を見て、彼らに平和を告げるべき業=メシアとして民の贖罪のために死ぬべき時の切迫を悟られたのである。その死が、多くの人間(イエスを信じる者達)を罪と死の支配から解放し、「神の子供達」が誕生する。イエスが世に到来されたののはその為であった。そして、御自分の死の意義を、「一粒の麦」の譬えで語り出された。
e.「一粒の麦」の譬え-2
 地に埋葬され、やがて芽を出す「一粒の麦」の譬えを、前回はイエスの死の意義を示すものとして学んだ。だが同時に、この譬えはイエスに従う者達(弟子)に対する教えとしても語られている。用件を伝えたピリポとアンデレ、それに彼らに伴われたギリシャ人達だけではなく、イエスを慕ってお側にいた者達全てに対して語られているからである。
 受難を前にしたイエスは、彼に従いたいと願う者達(ギリシャ人達も含め)に、自分を捨て自分の十字架(苦難)を負う覚悟をこの譬えで説いておられる。
 では24節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままにとどまる。だが、もし死ねば、多くの実を結ぶ」の「一粒の麦」を、イエスではなく彼に従う者達に当てはめるとどうなるだろうか。イエスの弟子の「一粒の麦」の死が、イエスの場合のような絶大な利益を相手に与えるとは考えられない。そうではなく、イエスが「多くの実を結ぶ」と約束されたのは、その弟子自身にもたらす利益である。つまり、過ぎ去るこの世の生(プシュケー)をイエスに引き渡し、自分の所有物として用いないことが、イエスの弟子である「一粒の麦」の死であり、その結果、「多くの実を結ぶ」永遠の生(ゾーエー)に至るという意味ではないだろうか。それは、次の25節「自分の命(プシュケー)を愛する者はそれを滅ぼし、この世で自分の命(プシュケー)を憎む者は、それを保って永遠の命(ゾーエー)に至る」のプシュケーとゾーエーの対比に明らかである。
 イエスが神の御意志に従順に、御自分の生(プシュケー)を献げられたように、イエスの弟子はイエスに自分の生(プシュケー)を献げ、もはや自己追求する「情と欲」の意志に従わず、イエスに倣って神の御意志に従順であろうとする。それは生まれながらの人間の性質に逆らう事だから、キリスト者の生活は、肉の身体にある限り自分の「情と欲」との戦いになる。これがイエスの弟子である「一粒の麦」の死ではないだろうか。
 では、「自分の命(プシュケー)を愛する者はそれを滅ぼし」とは、具体的にはどう言うことか。現在生きている「この世」における自分の生(プシュケー)の為にだけ、あらゆる価値を用い追求することではないだろうか。富や健康・愛情だけでなく、学問・芸術など文化的価値や宗教的陶酔さえも、現在の命(プシュケー)を享受するためにだけ追求すれば、結局は死や衰えによって失うことになる。また、人間は孤立した単独の存在ではなく、他者と結びつき関連し合って生きる社会的存在だから、自分個人がいかにそれらに恵まれようとも、自分に連なる人間達がそれらを欠いた不幸と悲惨の中にあれば、本当には幸いではありえないのである。それだのに、他者に先んじて自分を愛し他者の幸いを妬む自己中心的で破滅的な性質を、肉の人間は持っている。その結果、死によってあらゆる関係を断ち切られ、無に帰する。これが「それ(命)を滅ぼす」であろう。
 では、弟子達である「一粒の麦」が「地に落ちて死ぬ」=自分の命(プシュケー)を憎むとは何か。単純に、昔の苦行僧のように現世で禁欲し、引き替えに来世の幸福を求めることではないだろう。それでは一種の自己追求になってしまい、イエスのような、他者への献身という愛の性質を持っていないからである。
 イエスは、もともと持っておられた神の独り子としての栄光を捨て、滅ぶべき人間に連帯して卑賤な肉の命をお取りになった。そして罪も汚れもない完全な命(プシュケー)を、人間の罪の代価とし、刑罰としての死を人間に代理して担って下さった。彼は、自分の利益を捨てて、罪ある人間に永遠の命を与える道を開かれたのである。そのようなイエスの愛は、聖霊によって人間にイエスへの愛を呼び起こし、彼に自分を献げるという願いを起こさせる。そして聖霊に従って、肉の思いである「情と欲」を憎み、結果として、滅びとしての死を見ることなく永遠の命に至る。
 イエスは続いて「もし誰かがわたしに仕えようとするのであれば、わたしに従ってきなさい。そうすれば、わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになる。誰かが、わたしに仕えるなら、父はその人を尊重して下さるであろう」(26節)と言われた。イエスに従うとは、イエスが地上で歩まれた道を、弟子達も歩むことである。イエスは枕する処なく放浪しつつ、虐げられた貧しい者・不幸な者に神の近さ=神の国を宣べ伝え、病と障害を癒やし、遂に十字架に死なれた。だから、彼の弟子も、地上では寄留の旅人と自覚し、他者、特に不幸で貧しく蔑まれている者に奉仕し、名誉や富を求めようとしてはならない。そうすれば、復活のイエスが勝ち取られ、現在生きておられる処=神との交わりの生(永遠の命=ゾーエー)に、彼と共にいるようになる。そこにおいては、神を愛することが神が創造された他者と自分自身を愛すること一致し、また死によって交わりが断たれる事がない。だから、地上で苦難の道を歩むといっても、既に勝利された主イエスに担われ、慰めと力を与えられつつ彼と共に歩むのである。雅歌に「自分の愛する者に寄りかかって、荒野を上ってくる者」(8:5)と歌われているのは、このように地上を旅する教会の姿である。
 そして、イエスに仕える者を神は「尊重して下さる」。イエスに仕える以外、ほかの条件はない。だから、本来の選民ユダヤ人だけでなく、イエスとの面会を求めた「数人のギリシャ人達」も、異邦人であるままに、神に尊重される。これは、「諸国の民」への平和の予告である。
f.「人の子」の上げられる時-1 
 だが、これらの祝福が実現するためには、まずイエスがその民に代わって、神からの棄却・滅びとしての死を死なねばならない。彼は神を父と呼び、全き従順を献げられた。そのような御自分の拠り所である神から、捨てられ呪われる死の恐怖と苦しみは、神の独り子だけがよく知り得ることである。彼は肉体的苦痛や人からの侮辱を恐れたのではなく、人間の罪の正当な裁きである神の怒りに恐怖されたのである。なんと祈れば良いのか、「この時から救って下さい」と祈ることはできない。この時のために、彼は世に来臨されたからである。
 イエスは激しい意志をもって「父よ、御名の栄光を現して下さい=御名を崇めさせ給え」と叫ばれた。これは、神の御意志の成就を求める祈りである。つまり、イエスは神の御業の成就としてその民のために死ぬことを御自分の願いとして祈られたのである。共観福音書は、同じく受難を目前にしたイエスの恐怖とその克服の祈りを、ゲッセマネの園の出来事として描いている。
 この偉大な祈りに応えて、天から声があった。だが、今日はここまでにしたい。