家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「真理はあなた達を自由にする」

2021年2月7日

テキスト:ヨハネ伝8:31~47

讃美歌:1&344

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
(5)イエスをめぐるユダヤ人の混乱
 前回は、長すぎてわかりにくいとの苦情があったので、簡単にまとめをしたい。
 仮庵祭でのイエスの言葉「私が世の光である…」に、「エゴー・エイミー」という神顕現の言葉が使われたことにシナゴーグ側(ユダヤ人達)は反発し、これは自己証言であり虚偽であるとした。しかし神の啓示は、人間的証言なしに信ずべきものである。信じなければ、神の裁きを受ける。アブラハムは天使がもたらしたイサク誕生の約束を、人間的証言なしで信じた。そのように、イエスの言葉を信じるか否かが、神に判断される。従って、イエスの言葉は裁きの言葉ではないにも関わらず、それを信じない者には裁きの言葉となる。そして、その裁きは正しい。信じない者は、その人がとどまった古い契約に基づき、自分の罪の為に死ぬ。
 啓示は、将来起こるべき事をあらかじめ示し、それに備えさせるものである。イエスは世を去ることを予告された。イエスが「上げられ」(十字架死と復活・昇天)て世を去り、「新しい契約」が実現した。これが誰の目にも明らかに分かる終りの日には、もはやイエスの啓示(福音)は役に立たない。その前に、イエスの啓示を信じ受け入れなければ、その人は「自分の罪の中に死ぬ」。
 以上、ヨハネ伝はイエスの霊言を題材として、①イエスの言葉(福音)を信じなければ神の裁きをうけること、②福音がまだ啓示として世にあり、それが明白になる終りの日の前に、信ずべきこと、をイエスの口を通して語っている。「私を遣わされた方は、私と共にいてくださる。私を一人にはしておかれない」とは、イエスが福音宣教のために世に遣わし、激しく戦っているヨハネ共同体の言葉なのである。
 一応、以上を踏まえて次に進みたい。
g.「真理はあなた達を自由にする」(8:30~47)
 前回のイエスの言葉を聞いて多くの人達がイエスを信じた(30節)。イエスは彼らに「もしあなた達が私の言葉にとどまるならば、あなた達は本当にわたしの弟子であり、真理を知るようになる。そして真理はあなた達を自由にするであろう」と言われた。
 この言葉は、「もし」と仮定法で語られ、一応イエスを信じたと言っても、イエスの言葉にとどまらない「本当の弟子」でない者が存在することを示している。
 「私の言葉にとどまる」は単純にイエスの語った戒め(言葉's=複数形)を守るの意味ではなく、「私である言葉(単数)の中に留まる」であり、イエスを「エゴー・エイミー」(神の啓示者=人に顕現された神)と信じることである。具体的にはイエスに信頼して自分を委ねきる信仰だと考えられる。ヨハネ伝の最後で弟子トマスは、顕現されたイエスを「わが主よ、わが神よ」と呼び、イエスへの信仰を告白している。
 一方、ユダヤ人達が待望してきたメシアは、ユダヤ人の王として世界に君臨し、律法を守る選民ユダヤ人の正しさを証明し、彼らに栄光をもたらす存在であった。だから、そうした選民栄光化の方向でイエスをメシアと信じたと考えられる。しかしイエスが啓示した神の御意志は、唯一人の義人イエスを信じる信仰による義認(神の民とされること)であり、各人の行為による義認ではなかった。だから、律法を守り行う「選民性=ユダヤ人性」はもはや神の民たる条件ではなくなった。律法を行い得ない「罪人」が信仰によって義とされ、神の民とされる。「私の民でない者を、私の民と呼ぶ」(ホセア2:23)という預言の成就である。つまり罪人を義とし、神の民とする新しい契約の開始である。それを受け入れ、イエスの言葉にとどまる「本当の弟子」もいた。だが多くは、必死に守ってきた神の民であること(ユダヤ人性=選民性)を捨てられなかった。放蕩息子の譬え話の兄の気持ちになればわかりやすい。「じゃあ、俺が家出せずに働いたのは(必死に選民たらんとした)のは何のためだったのか!」である。これには、神殿を失い、律法のみをユダヤ民族のアイデンティティーとせざるを得なかった歴史的事情もある。だが、それはイエスの啓示する神の御意志を拒み、イエスが「エゴー・エイミー」たることを否定することである。この点が、後に続くユダヤ人批判の鍵である。
 では、イエスの言葉にとどまる「本当のイエスの弟子」が知るようになる、「真理」とはなにか。簡単に言えば「事物の本質」である。生まれながらの人間は、自分の視点から事物を観察し自分の存在を認識する。「我思う、故に我あり」である。そして自分主体の世界観や偶像を作り上げる。だがこれは仮定であり虚偽である。本当は、神が根源であり、神が万物を創造しその存在を保っておられる。これは頭では理解できるが、自我にとらわれた人間の意識の中では、相変わらず自分主体で事物を認識し判断している。しかしイエスの言葉にとどまる者は、主権者である神が被造物である自分に好意を持ち、ご自分を与えるまでに愛して下さったことを知る。愛とは相手に自分を与えることである。イエスよにって神の愛を知った者は、おのずからこれに応えて神を愛し、神に自分を捧げるようになる。「あなたは私のもの、私はあなたのもの」(雅歌2:16)という関係が神と人とに成立する。
 だから、自分は(万物は)神の愛によって存在へと呼び出され支えられているという「真理」を知った者は、自分自身からも解放され自由になる。これが「真理はあなた達を自由にする」の意味ではないだろうか。
 一方、ユダヤ人達は「万物は神から生まれ、神に帰する」という旧約聖書的信仰に立ち、人間の作り出した虚偽(偶像)にとらわれていないと自負していた。そこで、自分達は真の神に仕えるアブラハムの子孫であり、誰の奴隷にもなったことがない(偶像崇拝者でない)。それなのに、何故いまさら「自由にする」等と言うのかと尋ねた。
 イエスは荘重なアーメン言葉で「罪を犯す者は、罪の奴隷である」と言われた。ここでの罪は、個々の律法違反ではなく、単数表記の、神に背き自己を中心に据える根源的な罪(原罪)である。 律法厳守等で神の選民たらんとすること(己が義を追求すること)は、神を愛するからのことではない。「己が」義を求める自己追求の一つであり、やはり自己を中心とする根源的な罪(原罪)に拘束された奴隷状態である。ユダヤ人達の、選民たらんとする意志すら、原罪を免れない。パウロはそうした状態を「罪の法則の虜(奴隷)」と呼んだ(ロマ7:23)。こうした奴隷状態の者は、神の子として神の家にとどまることはできない。
 それに対しイエスは「自分を無にして、…十字架の死に至るまで」(ピリピ2:7~8)神に従順である神の子である。彼を信じ、彼の義によって自己追求する罪の奴隷状態から解放されるならば、本当に自分自身から自由な者となる。これが「子があなた達を自由にすれば、あなた達は本当に自由になる」(36節)ことであると思う。パウロは、同胞ユダヤ人の救いのためならば「キリストから離され、神に見捨てられた者となっても厭わない」(ロマ9:3)と言った。自分自身から完全に解放され、本当に自由に神と他者を愛する「イエスの弟子」の姿がここに現れている。
 ユダヤ人は血筋的にはアブラハムの子孫である。だが、アブラハムは、人間的には受け入れがたい神の言葉(イサク誕生の約束等)を、そのまま受け入れ信じた。「アブラハムの子ならアブラハムと同じ業をするはずだ」(39節)。神から来た天使の言葉をそのまま信じたアブラハムの子孫なら、神から来たイエスの言葉をそのまま信じ受け入れる筈である。ところがユダヤ人達は、イエスが「エゴー・エイミー」であるとは信じない。かえってそれを神聖冒瀆とし、殺害した。そうであれば、血統的な子孫であっても、信仰の父祖としてのアブラハムの子孫ではない。
 つまりイエスは、割礼や律法厳守による「ユダヤ人性=選民性」(エズラ・ネヘミアの宗教改革以来、ユダヤ人達はそれを必死に守ってきた)を否定した。確かにイスラエルの神信仰は、キリスト信仰の母胎(養育係)となった。だが、イエスによって信仰義認の新しい契約が発効した以上、古い律法義認(行為義認)契約の選民性に固執することは神への反逆である。パウロが、割礼を強いる律法主義者と戦ったように、ヨハネ共同体も、ユダヤ人性に固執するシナゴーグ側やキリスト教内部のユダヤ主義者と戦っていた。同時に、イエス人間性を否定し、ヨハネ共同体から分離したグノーシス主義者達(多くはユダヤ人)とも、激しい信仰の戦いを戦っていた。
 だから、「私は父(神)のもとで見たことを話すが、お前達は自分達の父(悪魔=虚偽の父)から聞いた事を事を行っている」(38節)との過激な言葉は、ヨハネ共同体がこうしたユダヤ人達に投げつけた言葉なのである。律法に固執する選民意識や、ヘレニズムに影響された天使崇拝(グノーシス)への怒りは激しかったのである。
 41節のユダヤ人達の「姦淫の子ではない」とは、「私生児でない」ではなく、偶像崇拝者という意味である。預言者達が、イスラエル偶像崇拝を「姦淫」と呼んだことからきている。ユダヤ人達は自分達を、真の神を「父」と呼ぶ契約の民だと主張した。だが、彼らは「真理」を語るイエスを信じない。神の言葉への無条件の服従(信仰)こそ、神を「父」とし、神に属する者である徴である。要するに、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなた達が聞かないのは神に属していないからである」(47節)。
 この箇所で、論争相手を「悪魔の子」とまで罵る激しさは、私達を辟易させる。しかし、「正しい信仰が何かを明らかにするためには、異端も現れねばならなかった」(アウグスチヌス)。パウロヨハネ共同体のこうした戦いが、正しい信仰を明確にしたのである。
 同時に、神に属するか否かは宿命的・固定的な定めではないことも心したい。あくまでもその時点で、イエスの福音を信じるか否かの裁きである。風が思いのままに吹くように、聖霊も自由に働かれる。迫害者サウロが、ある時点で使徒へと召されたように、「神に属していない」者が「神に属する者」へと召される時がくる。「私の民でない者を、私の民と呼ぶ」(ホセア2:23)という預言は、まず私達異邦人達に成就した。神の言葉は永久に保つのであるから、同じように、今は反逆しているイスラエルが、憐れみを受ける日は必ず来る、と信ずべきである。