家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イエス・キリストにおいて神を知る

2021年12月19日

テキスト:ヨハネ伝17:1~5

讃美歌:119&352

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
1.弟子達への告別説教(13:1~17:26)
 前回、イエスが、「その日」つまり聖霊が付与される日には、もはや譬ではなく直接父の御心を知らせると語られたことを学んだ。父と子を一つに結ぶ聖霊によって、イエスの「身体」とされた弟子達も(子の一部分として)父に直接結ばれ、父から「子供」として愛されるからである。弟子達を御自分の「肉の肉、骨の骨」とするために受肉し世に到来されたイエスは、今や天の父の御許に帰ろうとしておられる。弟子達に、イエスの(復活の)身体を通して聖霊を付与するためである。 弟子達は、これから起ころうとすることをイエスがあらかじめ告げて下さっていることを信じて、イエスを神から来られた方と信仰告白した。だが、彼ら自身の能力による信仰では力不足なのである。ちょっとした試練が来ればたちまち砕けてしまう。父と子を結ぶ聖霊の力によらねば誰もイエスを「主」と告白する信仰に堅く立ち得ないからである。イエスはそれを分かっておられた。彼は、今から弟子達なしで唯一人、神からの棄却=十字架の苦しみをお受けになる。しかし、その苦しみの中で彼は一人ではない。父なる神も御子を死に渡すという苦しみを味わわれるからである。イエスは御自分を一人残して逃げ去る弟子達をあらかじめお赦しになり、励まされた。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。
 これは、最後の晩餐での言葉を超越し、既に復活し栄光を受けられたイエスがまだ世にある信仰をに語られる励ましの言葉である。
 遺訓を語り終えたイエスは、最後に御自分と弟子達の為の祈りを捧げられた。
17章(大祭司の祈り)
(3)「私の時」の到来(17:1~5)
 大祭司は、犠牲を捧げる前に①犠牲獣の聖別、②犠牲を奉献する者のためのとりなし、の祈りをする。だが、イエスは御自分自身が犠牲であり、またそれを奉献する者でもあり、犠牲奉献を執行する大祭司自身でもある。だから、伝統的なタイトル「大祭司の祈り」は、少し違和感がある。だが、世=地上に遺される弟子達=信仰者達への執り成しの祈りであり、ヘブル書もイエスを「恵みの大祭司」と呼んでいるのでそのまま用いて構わないであろう。
 イエスはこれまで、苦しみを受けて天に帰る出来事(十字架と復活)を「わたしの時」と呼んでこられた。最後の晩餐を終え、いよいよその時が到来した。彼は目を天にあげ「子があなたの栄光を現すため、子の栄光を現して下さい」と祈られた。
 「栄光を現す」とは、肉の目や心には分からない神的事柄を明らかにする「啓示」を意味する。イエスが、父を恵み深い神として啓示するために、御自分を御子=父と共にある先在のロゴスとして啓示して下さい、と祈られたことになる。
 ローマ世界の中でイエスの生涯と十字架刑は、新聞にも載らないような極めてローカルな出来事であっただろう。だがそれは、「全て肉なる者=全ての人=被造物全体を代表する人間という存在」を、先在のロゴスである子なる神が、御自分の身に引き受けられたという、全宇宙的出来事である。そしてイエスの復活は、永遠の生命に生きる(身体をもった)人間の創造であり、歴史の転換する出来事であった。創造者である神が、その御子を身体を持った被造物である一人の人間とするまでに、人間を愛されたのである。人になられた御子イエスの存在が、人間に対する神の愛の表現である。そのことを、人間が理解できるために、イエスが世が生まれる前から神と共にあった子なる神であることを、人間達にお示し下さいと、祈られたのである。
 身体において人間と連帯されたイエスは、朽ちるべき肉としての人間を代表して死を受け、神と共に永遠の命に生きる栄光の身体に復活された。だから、イエスを信じ自分を彼に委ねる者は、肉にあって死んでも、復活のイエスの「肉の肉、骨の骨」として永遠の生命に与り、栄光の身体への復活が約束される。だから2節「あなたが子に与えてくださった全ての者達に、子は永遠の生命を与えるようになる」。
 3節「永遠の生命とは、唯一のまことの神であるあなた、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」。強調した<と>は、神とイエスを別々の二つとして並列的に知ることではない。人間に連帯して弱い人間の身体に生まれ、十字架に死んで、神と共に生きる栄光の身体に復活された御子イエスにおいて、これ程までに人間を愛し関わり御自分のものとしてくださった神を知る事である。要するに、イエス・キリストにおいて神を知る(神は私の神であり、私は神のものであると知る)こと、これが永遠の生命である。
 4節「わたしは、行うようにあなたが与えて下さった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」は、肉なる者の一人として地上で過ごされたイエスの御生涯とその業(言動)は、人間と被造物世界に対する神の祝福と恵の表現(啓示)であることを意味する。彼は、野の花・空の鳥を愛し、カナにおいて結婚を祝福し、幼児を祝福し、姦淫の女を赦し立ち返らせ、病と障害を癒やし、ラザロの死に憤ってその姉妹に返して下さった。つまり、神の創造された世界を祝福し肯定され、それを損ない滅ぼす力と戦われたのである。最後に、御自分の身体において人間の罪の結果である死への定めを呑み込み滅ぼされた。
 だが、身体が滅びたなら、人間はもはや存在できない。だから、
  4節「わたしは、行うようにあなたが与えて下さった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」は、肉なる者の一人として地上で過ごされたイエスの御生涯とその業(言動)は、人間と被造物世界に対する神の祝福と恵の表現(啓示)であることを意味する。彼は、野の花・空の鳥を愛し、カナにおいて結婚を祝福し、幼児を祝福し、姦淫の女を赦し立ち返らせ、病と障害を癒やし、ラザロの死に憤ってその姉妹に返して下さった。つまり、神の創造された世界を祝福し肯定され、それを損ない滅ぼす力と戦われたのである。最後に、御自分の身体において人間の罪の結果である死への定めを呑み込み滅ぼされた。
 だが、身体が滅びたなら、人間はもはや存在できない。だから、
 5節「父よ、あなたが御自身の御前にわたしの栄光を、すなわち世が存在する前にわたしがあなたのもとで持っていたあの栄光を、現して下さい」と祈られた。弱い肉であるイエスの身体が死んでもはや存在しなくなっても、先在のロゴスとして永遠の存在でありつつ、身体において他の人間と連帯するために、永遠の生命に生きる身体に復活させて下さいと祈られたことになる。しかし、それを行われるのは父なる神であるから、指図するようには祈られない。ただ、「世が存在する前にわたしがあなたのもとで持っていたあの栄光」、とだけ懇願された。被造物としての身体を持たない者としてではなく、地上に生きたイエスとして(身体を持った)人間でありつつ、永遠の生命に生きる身体へと復活させて下さいとの祈りである。だからこの祈りも、御自分の為ではなく人間を手放さず堅く連帯するための祈りである。
 今日は、クリスマスである。永遠のロゴス=神の独り子が人間イエスとして生まれて下さったことを感謝する日である。神は御自分の創造された人間を愛し、御子をその一人として下さった。神に背き自分自身を自分の主人としようとする人間の罪を、御子の肉の身体によって罰し滅ぼし、イエスを栄光の身体に復活させ、彼を通して信じる者に永遠の生命に生きる者として下さる。だから、人間が永遠の生命に復活する過程も、主イエスの御生涯に倣う。まず肉の身体に蒔かれ、霊の身体に復活するのである。勝利者エスは肉にあって生きられた方である。イエスの御生涯は、私達のこの世での生に対する祝福である。生老病死と自分の内にある「罪の法則」は私達を苦しめ誘惑し、罪を犯さざるを得ない。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と、主は言われる。信仰者の弱さと罪は、既にイエスの十字架において担われている。イエスの勝利に与る私達は、自分の弱さと罪から何度でも立ち上がり、闇の力に対しこう言うことができる「わが敵よ、わたしについて喜ぶな。わたしは倒れても起き上がる」(ミカ7:8)。この人生に蒔かれた信仰と希望と愛が、永遠の御国において完成成就するのである。だから、私達はこの人生を喜び肯定できる。
 この教会を始めた時には、まだ学生であった者が既に人の親となり、相澤は既に世を去った。私達の生涯も否応なく過ぎ去りつつある。だが、この人生において出会った愛と交わりが、主イエスの復活の生命によって永続し完成することを教えられた。与えられた人生の幸い、家族や友人、健康を感謝して受けよう。そして、世の旅を終えたならば主の御許に憩い、終りの日の再会を待ちつつ愛する者達の為に祈ろう。このように、幸い溢れる者として下さったのは、御子を世に遣わすまでに人間を愛して下さった神の慈愛と真実である。心から感謝して神を讃美し、クリスマスを祝い、また自分の人生を神に捧げていきたい。