家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ラザロの蘇生-2

2021年5月16日

テキスト:ヨハネ伝11:17~44

讃美歌:309&187

       A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
 前回、ラザロが重病であることをマルタ・マリア姉妹がイエスに伝えたこと、それに対しイエスは直ぐに行動しようとはされずラザロの死後時間が経過するのを待ち、それからユダヤ地方にもどる決意を弟子達に示された。その目的は、神が死を支配し給う方であることを示すためであり、同時にイエスが「栄光を受ける」、つまりイエスが世に到来された本来の業(世の罪を取り除く神の羔羊の業)を成し遂げる為であると、語られた。
 ユダヤに戻ることは、イエスだけでなく弟子達も生命を落としかねない危険があった。だが、イエス決意を知った弟子達は、トマス(双子)が語ったように死を覚悟しても師と行動を共にする決心をしたのである。
(8)復活の生命(11:1~55)
b.マルタとの対話(11:17~27)
 イエス一行がベタニア村にたどり着くと、ラザロが墓に葬られて既に4日も経過していることが分かった。と言うことは、イエスにラザロの重病の報が届いた時点で、既にラザロは死んでいた計算になる。ベタニア村から「ヨルダン川の向こう側」イエスのおられた地点まで約30~40km程であり、徒歩でほぼ一日分の距離である。使いの者が出発したその日に到着し、その3日後にイエス一行がベタニア村に到着されたとすると、合計4日である。その時点ですでに4日経過していたと言うことは、使いの者出発直後にラザロが死に、その日のうちに埋葬されたことになる。
 マルタ一家を襲った悲劇は、近隣のエルサレム住民達にも知れ渡っており、大勢のユダヤ人達が弔問に訪れていた。弔問客で家は混み合っていたが、マルタはイエスが村に来て下さったとの報告を受けると、直ちに立ち上がってイエスを迎えに行った。だが、妹マリアは悲嘆に暮れてお迎えに立ち上がる気力もないのであった。
 マルタはイエスに会うと、「主よ、あなたがここにおられたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆いた。一家を支える人間として葬儀や弔問客の接待等で気を張っていたものも、イエスの顔を見たとたんに溢れてしまったのである。知らせが間に合わなかったことは分かっている。でも、もしイエスが近くにおられたならば…、と無念でならなかった。
 しかし、敬虔なマルタがイエスを信じる心は、ラザロを失った今も少しも変わらなかった。だから続けて「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神が聞き届けて下さると、わたしは今でも信じております」と言った。イエスが願われることは、父(神)の御意志が行われることであり、父の御意志は「子を見て信じる者が皆永遠の命を得る事であり、私がその人を終りの日に復活させること」(6:40)である。つまりマルタは、ラザロが死んでしまった今でもなお、イエスを人間に永遠の命を与える方と信じると告白したのである。
 この健気で悲痛な告白を聞いて、イエスは「あなたの兄弟は復活する(未来形)」と言われた。復活するとは本来は、もはや死なない「栄光の身体」を与えられる事である。だが、これからイエスが為されようとする徴(「眠っている」ラザロを起こすこと)は、もとの(肉の)身体に生き返ることだから「蘇生」である。しかし、このイエスの言葉の射程は、①現在における「永遠の命」の付与、および②将来における「栄光の身体」の付与、の両方を含んでいるから、用語は「復活=アナスタシア」である。
 「死者の復活」は捕囚期以降のユダヤ教思想であり、モーセ五書しか受け入れないサドカイ派を除いてイエス当時の民衆の信仰の主流となっていた。ヨハネ伝成立時期には、サドカイ派は消滅していたから、「終末時における死者の復活」はユダヤ教の教義となっていた。しかし、終末時の復活までは、義人ですら神との交わりを絶たれた死の状態にとどまると考えるのが主流であった。
 マルタは正統的ユダヤ教徒として、終末時の復活は分かっていますと答えた。しかし、現在(及び終末まで)ラザロが死んでいることが悲しいのである。
 イエスは彼女に、神的顕現の言葉で「わたしは復活であり、命である(エゴー・エイミー+補語)」と言われ、続けて「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたは、この事を信じるか?」と、言われた(25~26節)。
 この言葉の意味を、私達キリスト者は次のように教えられ、理解する。①イエスの死が、人間全体の罪の肉における死であり、イエスの復活が、神と共に生きる新しい人間の創造である。②イエスを信じる者は、イエスの霊の命(ゾーエー)に結ばれる。だから、肉の命(プシュケー)での生死に関わらず、霊の命(ゾーエー)によって死ぬことなく永遠に生きる。
 だが、この時点ではイエスの十字架と復活はまだ出来事として生起していない。だから、マルタがこのように理解できた筈はない。
 だがマルタは、それまでもイエスをメシアと信じ慕ってきた。だからイエスの言葉を、頭で理解しないままに、次のような力強い愛の言葉として聴いたのである。「私(イエス)は永遠の命を与える為に世に来た。だから私を信じる者を、決して死に渡すことはしない。あなたは、これを信じるか?」。
 愛を呼び起こすのは、贈り物や利益ではなく、自分を献げる愛である。だからマルタの霊はイエスがその為に命を献げようとする愛を感得し、それに応えて自分の信仰と愛を献げて、言った「はい、主よ、信じます。あなたが世に来たるべき神の子、救主と、私は(今までもこれからも)信じます(継続の現在完了形)」。
 このやりとりはバッハカンタータ140「目覚めよと呼ばわる声す」の二重唱アリア(魂とイエスの対話)を想い起こさせる。神の愛は、人間の応答を呼び起こす。
 マルタは、どのようにしてかを知らないまま、イエスへの愛と信仰において、彼の言葉を心の底から真実と受け入れ信じた。主は、ラザロは(自分達は)「死んでも生きる」と言われた。彼女の心はイエスを信頼して慰められ、ラザロの(肉における)死をもはや悲しまなかった。
c.ラザロの蘇生(11:28~44)
 マルタは、妹マリアがまだ家で泣き悲しんでいることを思った。彼女にもこの喜びを分け与えねばならない。マルタは家に飛んで帰り、マリアにイエスが呼んでおられると告げた。イエスがそう言われたのではなく、ただ、イエスのもとに行きさえすれば、マリアにも慰めが与えられることを知っていたからである。
 マリアは直ちに立ち上がってイエスの処に急いだ。(ラザロの墓地に直行するため)イエスはまだ村に入らずマルタが出迎えた場所におられた。家にいた弔問客達も、マリアが墓の前で泣く為に(当時は、墓前で声を出して泣くことが哀悼の作法であったから)出て行くのだと思い、一緒についてきた。マリアはイエスを見るなり、足下に身を投げ出し「主よ、あなたがここにおられたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」とマルタと同じ事を言って号泣した。イエスが、この嘆きと悲しみを受け止めて下さると信じていたからである。イエスは、彼女が泣き弔問客達も泣いているのを見て、激しく心を動かされ、興奮して言われた「どこに葬ったのか!」。
 皆は、イエスを墓地に案内した。道すがら、イエスは涙を流された。(イエスが泣かれる場面は、こことエルサレムを遠望して嘆かれる場面と2つだけである)。それを見て皆は「ああ、なんと彼(ラザロ)を愛しておられたことか!」と言った。だが、「先天的盲人を開眼させたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったんだ」と、イエスへの失望を漏らす者もいた。しかしイエスは、マリア達が泣き悲しんでいることに胸を痛めてなかれたのである。そして、死の暴虐と、それをもたらす罪の支配に激しく憤っておられた。神は人間を御自分に連なる生ける者として創造された、創造に逆らい神から独立しようとする人間の罪と、死の運命への怒りが、イエスを激しく興奮させていた。
 ラザロの墓は横穴で入り口を石で塞いであった。イエスは石を取り除けと言われた。マルタは死体が既に死臭を放っているからと、それを止めようとした。彼女は、イエスへの信頼によって慰められ、もはやラザロの蘇生までは求めていなかったのである。だが、イエスは「信じるなら、神の栄光をみるであろうと、あなたにいったではないか!」と言われた。(「神の栄光をみる」は、神の超越した力を体験することである。イエスがそのようにマルタに言ったのではなく、イエスが語られるのは、「必ず成就する」真の言葉だからである。)そこで人々は墓の入り口を開けた。
 イエスは天を仰いで言われた「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します」。イエスの願いを神はいつも聞き入れられる。だから、ラザロに永遠の命を付与するだけでなく、もう死臭を放っている彼の身体を蘇生させることも聞き入れられると、イエスは既に知っておられた。だが、それをわざわざ言葉に表すのは「周りにいる群衆のためです。あなたが私を遣わされたことを、彼ら(群衆)に信じさせる為です」と言われた。こう祈られて、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と叫ばれた。ラザロは手足を布に包まれ顔に覆いを掛けられた(埋葬の)姿のまま、起き上がって墓から出てきた。
 福音書には死者の蘇生の奇跡が他にも記録されている。だが、既に墓に葬られ死臭を放つ死者の蘇生は、ここだけであり、死直後の蘇生より遙かに超自然的「復活」に近い。ラザロの死から時間が経過するのを待ったのは、この超自然性を強調し「復活=栄光の身体での復活」の徴=予兆とするためであった。復活は言うまでもなく超自然の出来事である。
 ラザロが死なないことをマルタ・マリアが期待したように、イエスが死なないで栄光を受ける事を弟子達は期待したであろう。だが、イエスが人間に連帯し死んで復活されないならば、罪の肉からの解放はないのであり、人間が永遠の命に生きることはできない(各人はそれぞれ自分の罪によって死ぬ)。だから、イエスは御自分の死を決意しておられた。イエスの死に弟子達が耐え、イエスの死と復活の意味を彼らが悟って、イエスの死が人間の罪の肉の死であり、イエスの復活が神と共に生きる新しい人間の創造であるという、驚くべき「神の救い」を信じさせる為に、この徴が行われたのである。
 イエスは冷静に、(布を)ほどいてラザロが自由に動けるようにしてあげなさいと言われた。屍布を取り去られ、あらわれた若々しいラザロの顔は、感動に輝いていたであろう。姉マルタ・マリアは彼を抱きしめ、イエスにひれ伏して感謝したであろう。周囲の群衆は、驚きに打たれたであろう。だが、それらの情景はなにも描写されていない。それは、この奇跡がその関係者達の個人的益の為ではなく、これを読む私達の為だからである。今の私達自身が、イエスの「わたしは復活であり、命である」以下の言葉を、マルタと同様に自分に語られた愛の言葉として聞き、心からの信仰と愛を彼に献げるためである。