家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ラザロの蘇生-3、イエス殺害の動き

2021年5月30日

テキスト:ヨハネ伝11:45~55

讃美歌:138&258

       A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
 前回は、イエスとマルタの対話、及びラザロの蘇生の奇跡を取り上げた。私達は、この箇所から以下の二つを学んだと思う。
 ①終末の現在化:マルタは当初、「永遠の命」&「栄光の身体」を受けるのは、将来の終末時においてであると思っていた。だが、彼女の目の前にいるイエス御自身が復活であり永遠の命そのものであると告げられた。イエスを信じる者は彼と結ばれる事によって、直ちに永遠の命に与る。すなわち、死ぬべき命(プシュケー)から永遠の命(ゾーエー)に復活する。
 ②復活の身体具有性:人間は霊と身体からなる存在である。霊において生きていても、身体がない状態では、幽霊であって完全な人間ではない。イエスは「わたしは復活であり、命である」以下の事を語られ、マルタに「あなたは、この事を信じるか?」と問われた。彼女はこれを頭で理解するのではなく、イエスへ信仰と愛において受け入れ信じた。だがもし信仰者が、上記①の状態(霊において、現在すでに永遠の命を受ける)だけで満足してしまったら、身体を持った存在からなる地上世界の不条理と悲惨(例えば、悪人の繁栄、義人の苦難、戦乱や災害、身体障害や病の苦しみ、ほか色々)を放置し切り捨て、個人的な内面的救済だけで満足する事になる。神の子は、地上の世界に連帯して人間イエスとなられ、身体障害者や病人を癒やし、ラザロの死を嘆くマリア達の悲しみに胸を痛め涙を流された。そして罪と死の支配するこの世の有様に憤られたのである。そのように、信仰者も世に連帯して地上の惨苦を共苦し、罪と死の支配に反抗して癒やしの業(心身への、社会への)を行い、地に神の国が到来すること、すなわち「身体が贖われる」ことを待ち望まねばならない。「既に」永遠の命の霊を受けているからこそ、「悲しみも叫びもない」世界の実現を切望するのである。イエスの言葉は「必ず成就する」神の言葉であり、「信じるなら、神の栄光をみる」。すなわち地上に目に見える形で実現するのである。永遠の命は必ず「栄光の身体」への復活をもたらす。ラザロの蘇生は、マルタだけでなく私達に「身体の復活」、すなわち天と地が一つになる神の国の実現を指し示す「徴」である。
(8)復活の生命(11:1~55)
d.ラザロの蘇生の影響(11:45~55)
 ラザロ重病の報を受けたイエスは、4節で「この病気は死で終わらない。(a)神の栄光のためである。(b)神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われた。ラザロの病気とその結末=蘇生の奇跡が、(a)神の栄光を現す(神の御力を示す)事と、(b)神の子(イエス)がそれによって栄光を受ける=イエスが「世の罪を取り除く」神の羔羊としての業を成し遂げる=贖罪のため十字架死する事、を予告された。
 ラザロの蘇生の奇跡が上記の影響を起こした。ラザロ蘇生を目撃した多くのユダヤ人はaの影響を受けイエスを信じた。しかし一方、ユダヤ教上層部(ヨハネ伝当時ではパリサイ派、イエス当時では神殿の指導者層)にこの事件とその影響を報告する者もいた。何しろ、死者の蘇生というとんでもない奇跡が起きたのである。民衆のメシア待望は否応なく熱狂的になるであろう。政治的に、これは非常に危険な事態であった。事態はb(イエス殺害)方向に動き始める。
 そこで神殿の指導者層(祭司長達や「パリサイ派の人々」となっているが、イエス当時では祭司長達だけ)は最高法院(サンヘドリン)全議員を招集した。
 イエス当時の最高法院(サンヘドリン)は、①祭司長たち②長老たち(市民的指導者たち)③律法学者たち(パリサイ派など)の三つのグループで構成されていた。そのうち、①「祭司長たち」は神殿貴族祭司階級の代表者6~10名で構成され、祭儀・財政・警察の執行を担当する、いわば内閣のような存在であった。大祭司は首相のような立場にある。彼らが必要に応じて他の二つのグループ②長老たち③学者たちを招集して議会を開催する。それまではイエスは、宮浄め等の神殿批判から①のサンヘドリン警察に狙われ、安息日規定違反などでシナゴーグを中心とする③の律法学者たちと対立していた。だが、ここに至って、サンヘドリン全体がイエスと敵対する方向に舵をとるのである。
 48節の祭司長達の言い分「ローマ人がきて、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」のうち、神殿は「場所」、国民は「民族」が原語である。メシア僭称者を中心に反ローマの戦いが起きれば、ユダヤは国家としての存在が危うくなる、というのである。これは、70年のユダヤ戦争で実際に起きた事であり、祭司長たちの危惧は当たっていた。だが、イエス自身に死に値する違法行為はない。
 49~50節、大祭司カヤパの言葉は、(たとえ無罪であろうとも)一人の人間が死んで、ユダヤ国民全体が(政治的に)滅亡を免れる方が得策だという意味である。実際、ヘロデ・アンティパスが民衆の蜂起を恐れて洗礼者ヨハネを処刑した前例がある。しかしこの言葉は当初の政治的意味を超えて、イエスの贖罪死によってイスラエル民族だけでなく異邦人の間に散らされている神の子達を「新しいイスラエル」として集めるという、預言的言葉としてヨハネ伝著者は解釈している。
 ユダヤ教では本来、大祭司は終身制である。だが、実際はローマの意向で任命されたり廃されたりした。ローマ直轄直後AD6~18年まではアンナスが大祭司を務め、カヤパはその後を継ぎAD36年まで20年近く大祭司職にあった。この危うい情勢下でかくも長期間大祭司に留まったと言うことは、彼が如何に狡猾・老獪な政治家であったかを示している。51節に「その年の大祭司」とあるのは、イエスの十字架と復活という重大な出来事の起きた年に大祭司職にあった、という意味であり、大祭司職が年毎の交代制だったという意味はない。
 しかし、民衆の間にはイエスをメシアと期待する熱狂的雰囲気があり、政治的にはローマとユダヤ自治との不安定なバランスがある。だからと言って、領主ヘロデが洗礼者を処刑したように、サンヘドリンがイエスを処刑したとすれば、イエスを支持する民衆がサンヘドリンと対立してしまう。だからサンヘドリンとしては、イエスがローマ側によって反乱罪で処刑される、という形で事態を収束させたかったのである。
 この危険な情勢下、イエスは荒野に近い奥地(エフライムという町)に弟子達と共に身を隠された。
 さて、エルサレムで過ごすべき巡礼祭、過越祭が近づき、大勢のユダヤ人がエルサレムに集まって来た。巡礼者の間では、もっぱらメシアと評判高いイエスの噂で持ちきりであった。彼(イエス)がエルサレムにくるかどうかである。来るとしたならば、(ローマとの間に)何らかの事件が起こるに違いない。イエス御自身がその気でなくとも、彼をメシアとして担ぎ上げ反乱を起こそうとする熱狂的民衆の動きが問題であった。サンヘドリンもそれを恐れ、イエスを逮捕・拘束するため、居所が分かれば届け出よと命令を出していた。
 ラザロの蘇生の奇跡によって、政治的情勢は一触即発の危険をはらむものとなり、イエス殺害の方向へと大きく動き出したのであった。
 キリスト教の救いは、内面的な解脱や悟り、または社会変革といった人間や世界内部からの救いではない。地上世界を越えた永遠の神の世界(天)から、この世界(地)にもたらされた解放であり、神の支配(神の国)の地上への突入である。神から来た方(イエス)の地上の生と死(これは歴史的事実である)、及び復活(地上に生起した永遠の出来事)によって、天と地は一つになる方向に動き出した。終末時が開始したのである。今日取り上げた生々しい人間たちの思惑と政治的動きは、天からの救いが歴史に介入し現実を動かしたという事実である。AD30年頃のイエスの十字架と復活によって、神の国は地上に開始した。私達は、その完成を待望する時代に生きている。この世の有様は永遠ではなく過ぎ去る。地上に目に見える形で到来する神の国を、私達は待ち望む。空想や思い込みではないかという誘惑に抗し、イエスの十字架を見据えて忍耐と希望に生きるべきである。