家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イエスの死と十字架降ろし

2022年4月3日

テキスト:ヨハネ伝19:28~42

讃美歌:257&142

                      B.救済者の天への帰還(13:1~20:31) 
2.受難と復活(18~21章)
 前回は、ローマ側から十字架刑宣告と執行を受けた事を読んだ。共観福音書に比して、その過程でのイエス御自身に関わる描写は簡潔であり、イエスを十字架につけた兵士や、罪状書きを巡るピラトと祭司長達のやり取りがむしろ詳しく報告されている。その一方、十字架上のイエスが愛弟子に母マリアを託された印象深いエピソードがある。これをもう少し考えてみたい。
 十字架の足下にいた愛弟子の心中を想像してみる。彼はまだ十七才前後の少年である。成人の弟子達は、彼らなりにイメージした神の国を到来させるメシアとしてイエスを信仰していたであろう。だから、この事態に対する彼らの動揺にはイエスのメシア性への不安が含まれていたと思う。
 だが愛弟子は、まだ神の国のイメージが確立していない十四・五才の頃にイエスに出会った。若く信仰的に未熟な信仰者は、ちょうど「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャがゾシマ長老に傾倒したように、自分の霊的指導者に強く愛着してしまうことがある。敬慕の心からであっても、そうした情愛はやはり人間的なものである。アリョーシャは、ゾシマ長老の死に尊厳が与えられなかったこと(遺体がすぐに腐臭を放った)で動揺し、信仰まで揺らぐ経験をした。愛弟子も、イエスの苦難と辱めに衝撃を受け、また愛する師を失うという恐怖と絶望に苦しんでいただろう。
 一方、母マリアも、息子を失うという「剣で胸を刺し貫かれる」ような苦痛の中にいた。愛弟子と母マリアの苦痛は、成人の弟子達とはまた少し違って、イエスのメシア性への不安ではなく、地上的イエスへの自分達の愛が、彼の死によって挫折する事への苦痛である。
 だがイエスは、苦しい息の下から彼らに呼びかけ、彼らを親子とされた。この親子関係は「血筋によらず、肉の欲によらず」彼らを神的愛で愛するイエスによって「=神によって」、結ばれた関係である。こうして、マリアと愛弟子は、地上的イエスへの人間的愛(それは、神的御方を愛するにふさわしい愛ではなかった)を、お互いへの愛へと変えることができた。彼らが相手を愛する愛は人間的愛でありつつ、同時に彼らを結びつけて下さったイエスへの愛でもある。相手の中にイエスを見るからである。マリアは、老を支える年若い息子を得た。だが、愛弟子はそれ以上であった。マリアの息子となり、イエスの末弟とされ、母を託されるという特別な恵みを得た。地上のイエスを失う苦痛の中にいた彼らは、イエスの死後も、お互いに愛し合う事によって、二人を結びつけて下さったイエスを愛し続けることができる。絶望から立ち上がる途が、与えられたのである。
 触れ合えるような人間を愛する愛で、神を愛することはできない。だが神は、自然な人間的愛を拒み給うのではなく、向かうべき方向とあるべき場所を与えて下さる。人間相互の愛は、神の愛に支えられ、神の愛を土台としてはじめて、祝福された永続するものとなる。主イエスが私達相互の間にいて下さってはじめて、「愛はいつまでも絶えることがない」。
 このエピソードが十字架の下で生起したかどうか第三者の証言はない。だが、その後の愛弟子=長老ヨハネがイエスの母に仕えて生涯を共にしたその事実が、この出来事が真実であることの何よりの証拠である。
 こう考えると、愛弟子=長老ヨハネが十字架上のイエスの有様を詳しく描写しようとしないのも理解できる。その時の悲嘆と動揺が思い出されるからである。だが、そうした人間的苦痛ではなく、それを超えて、イエスの苦難と死が神の救いの御業であることを伝えたい。だから、この出来事が聖書の預言の成就であると熱心に指摘するのである。預言の語句に細かくこだわるのも、そうした心からであろう。
 今日は、イエスの死と十字架降ろしまでを取り上げる。
19章(ローマ側の裁判と処刑)
(5)イエスの死と葬り(19:28~42)
a.イエスの死
 こうして、「エスは聖書預言が成就するために(必要な)すべてのことが成し遂げられた事を知って」とあるのは、福音書記者の解釈である。実際の事実としては、イエスが何か叫ばれたので見張りの兵士が、ヒソプの茎(棒)の先につけた海綿に葡萄酒(オクソスと呼ばれる卵と酢と水を混ぜ合わせた飲み物だそうである。葡萄酒?)を含ませ、イエスの口元にあてがった。これはすべての福音書に記載されているが、飲まれたかどうかは、福音書によって報告が異なる。ヨハネ伝はこれを受けた(飲んだか、あるいは嘗めただけかは不明)とだけ伝えている。そして「成し遂げられた」と言い、頭をたれて「霊を引き渡された」。
 死の直前に何か叫ばれた事も、全福音書が共通して伝えているが、その言葉は、マルコ&マタイは「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」であり、罪なき神の子が人間の罪を負って神の裁きに服する苦悩を伝え、ルカは「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と神の意志に従って死ぬ殉教者の信頼の叫びとしている。だが、これは本質的に子なる神が父なる神に向かって叫ばれた言葉であり、人間達への言葉ではないから、人間がそれを正確に聞き取れなくても不思議ではない。福音書記者達は、それぞれ聖霊に示されるままに解釈し記述しているのである。ヨハネ伝は、イエスが世に到来されて為すべき業をすべて成し遂げられた事を示す言葉としている。
 イエスの死をあらわす言葉は、マルコとルカは「息を引き取る」という一般的動詞を用い、マタイは「息を止める」(ギリシャ語では息と霊は同じ語)と表現している。ヨハネ伝は、「霊を引き渡す」というイエスの霊的行為として表現し、ルカは同じ内容をイエスの言葉として表現した。
b.遺体の取り降ろし
 ヨハネ伝でのイエスの十字架の日付は、共観福音書より一日早いニサンの月の13日、つまり過越の羔羊が屠られる過越祭の準備の日とする(過越祭はニサンの月の14日)。かつ、その年のニサンの月の13日は金曜日であった。その日の日没から安息日(土曜日)と重なって過越祭(14日)が始まることになる。
 律法(申命記21:22~23)によれば、木にかけれらた者の遺体はその日の日没までに埋めねばならなかった。大事なこの過越祭を汚さないために、祭司長達は日没までに受刑者を十字架から下ろすようピラトに要請した。イエスは午後3時頃息を引き取られた後まもなく取り降ろされた事になる。十字架につけられたのが昼頃だとすれば、受刑者がまだ死んでいない可能性が高い。そうした場合、取り降ろし後に息を吹き返して逃走したり、仲間達から奪還されたりしないように、受刑者の脚の骨を折る習慣があった。左右の二人は脚を折られたが、イエスは既に死んでおられたので折られなかった。その代わり兵士達は、イエスの死の確認、及びその死を確実にするため、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると「血と水」が流れ出た、とある。
 血は当然としても、水が遺体から流れ出るのは異様である。これは「」で聖餐を、「」で洗礼を示しているからである。Ⅰヨハネ5:5~6に「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか。このイエス・キリストは、水と血を通って来られた方である。水によるだけではなく、水と血とによって、こられたのである」(口語訳)とある。洗礼と聖餐に与る事によって、信仰者はイエスに結ばれる。当時、洗礼を行っていたのはキリスト教だけではなかった。だから、洗礼だけでなく、イエスの流された血が自分の贖いの為の血と信じ、イエスの血を飲み肉を食する聖餐に与って、はじめてイエス・キリストに結びつけられることを意味している。イエスがこの日に十字架上で流された血、それが信じる者の罪を全く贖う、真の贖罪の血である。
 これを証し、伝承してきた(継続の現在完了形)のは、目撃者である愛弟子=長老ヨハネである、というくだりは、証言の真実さを長老の権威で保証しているのである。35節「その者は自分が真実を語っていることを知っている」部分を「<あの方>は<彼=目撃者>が真実を語っていることを知っている」と翻訳する人もおり、その場合<あの方>はイエス・キリストであり、主イエスと長老ヨハネの二重の権威によって保証されることとなる。いずれにせよ、証言は真実であり、その意図・目的は、それを伝えられた者達が「信じる為」である。
  イエスは「世の罪を負う神の羔羊」であるから、その脚が折られなかった事は、過越の羔羊の骨は折られないとの預言の成就である。また槍で刺し通された事は、「彼らは自分が<刺した>者を見つめることとなる」(ゼカリア12:10)との預言の成就である。
 なお、受刑者の脚を折ること、およびイエスの脇腹が槍で突き通されたことは、ヨハネ伝だけの記事である。十字架の側近くで目撃した者の生々しい証言である。
 日没まで、あと3時間くらいしかない。引き取り手がない受刑者の死体は、葬られることもなく投げ捨てられてしまう。だがイエスのお身体は、十字架刑を阻止できなかったとしても、せめて丁重に敬意を込めて葬ろうと決意したアリマタヤのヨセフらの手に引き渡された。
 続きは次回とし、今日はここまでとしたい。