家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

勝利者イエス

2021年12月5日

テキスト:ヨハネ伝16:25~33

讃美歌:100&494

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
1.弟子達への告別説教(13:1~17:26)
 前回の学びは、イエスが世を去ると、代わって「別の同伴者=聖霊」が派遣され、弟子達を導いて真理を悉く悟らせて下さると予告された。聖霊は、彼ら一人一人に同伴し、人間的理性による推論ではなく、直接、神御自身の感情・御意志を示し、神の御心に沿う「義」が何であるかを認識させる。この認識が、世=ユダヤ教側が主張する義は人間の主張にすぎない「不義」である事を明らかにする。世がキリスト者を裁く迫害の場で、このことを聖霊は力強く弁論させて下さる。ローマとユダヤ教双方の激しい弾圧下で、ヨハネ共同体自身がそれを体験し、証言しているのである。
 そして、現在味わっている苦しみは、世の終りに来ると言われている新しい生命が誕生する「出産の苦しみ」であり、新生の人間が古い人間から生まれ出たならば、その喜びによって苦しみを忘れるという。ここで注意したいのは、これは個々人の「魂の救い」だけではなく、人類全てに関わる事として語られている点である。聖霊がイエスと彼を信じる者を一体とするのであれば、イエスにあって人類は一体なのである。虚無の「この世」から、人類(死者も生者も、これから生まれてくる者も全てを含む)を神のものへと勝ち取る「神の国」の戦いに、キリスト者は召されている。今回は、この戦いについて語られる。
16章(世に勝つ信仰)
(3)世に対する勝利(16:25~33)
 イエスは共観福音書でも、多くの譬を語っておられる。神について、聖霊の助けなしに直接に理解することは不可能だからである。しかし聖霊が到来する「その日」以降は、もはや譬を通してでなく、父を直接知るようになる。イエスと父は一体であり、聖霊によってイエスと一体にされた弟子達も、「神の子供」とされたからである。イエスを御子と信じる者を、父(神)も御子に属する者として直接愛して下さるからである。「主の祈り」を人間が祈れば、神は御子の祈りとして受け入れられるように、弟子達のそれぞれの祈りも御子の祈りとして受け入れられるからである。
 その聖霊を派遣するために、イエスは世を去って父のもとに帰られるのである。
 17・18節では、弟子達はイエスが何を言っておられるか分からなかった。だが、こう解き明かされてようよう理解できた。そこで、イエスが将来起きるべきことを悉く知り、弟子達がお尋ねする前にあらかじめ示して下さることが分かった。そして、それによってイエスが神から来られた方と信じますと言った。30節「あなたが何でもご存じで、<誰もお尋ねする必要のないことが>、今、分かりました」の<>部分は訳が分かれているが、弟子達からの質問を待たず(必要とせず)、問われる前にあらかじめ告げて下さるという意味に解釈したい。
 しかし、熱心にイエスに聴いていた弟子達の理解がどの程度であったかは、直ぐにバレてしまう。ゲッセマネの園で、彼ら全てが「逃げ去った」からである。イエスは彼らの「理解」を否定されはしない。「だが、あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい、私をひとりきりにする時が来る」と予告された。イエスが、御自分が捕縛されたら弟子達全員が逃亡する、と予告されたことは、全福音書が証言している。愛弟子の長老ヨハネもこの予告を聴き、その実現を体験した。だから、直ちに「いや、(私をひとりきりにする時が)既に来ている」と続けたのであろう。実際、僅か数時間後に、弟子達全員が逃げ去ったのであった。
 イエスは人類を愛し連帯してその頭となられた。人類全ての罪を、神はイエスにおいて処罰し、十字架の死によって滅ぼされた。イエスの死は神に背く「古い人間」全ての、神の罰としての死である。だが、人間を代理するイエスの愛は、同時に人間を罪から救い出す神の愛であり、イエスと共に父なる神も、御自分の(アブラハムにおけるイサクよりも愛しい)御子を人間に献げる苦しみを味わわれたのである。だから、イエスは神に見捨てられた存在でありつつ、神と共に苦しまれた。これが、「わたしは一人ではない。父が、共にいて下さるからだ」の意味である。
 33節は、遺訓全体の締めくくりである。遺訓が語られたのは「あなた方が私によって(私のうちにいることによって)平和を得る為である」。イエスを信じる者は、神から離反しようとする古い人間としてはイエスの死によって死んだ、過去の者である。まだ肉にあって生きていても、肉によってではなく、復活のイエスの命(聖霊による命)によって生きようとする。聖霊によってイエスと一体になり、神に結ばれた喜びは存在の奥底からの喜びであり、何者も奪い去ることはできない。神に属する者として創造された存在を完全に満たし、神に愛され神を愛する自己を喜ぶ。聖書は、イエスこそが私達の「神との平和」であると、証言している。
 だが肉にあって生きる限りは、「戦い」である。生老病死や貧困・他者からの憎しみ等の外からの困難だけでなく、まだ自分に残っている情欲や不信仰といった「古い人間」と戦わねばならない。「世にあって、あなた達は苦しみがある」とは、まったくその通りではないか。自分自身を省みれば、何の気力も喜びも湧かない。「最もよいことは、早く死ぬこと。それよりもっとよいことは生まれてこなかったこと」という、ギリシャ的な憂鬱に陥りかねない。だが、そうではない。勇気を持ち、頭を上げて「神の国」を確信しつつ希望できるのは、「わたし(イエスは既に世に勝っている」からである。それが、イエスに属する者達の勇気と喜びの揺るがない根拠である。
 肉の目は見えなかろうとも、理性では理解できなかろうとも、イエスは既に復活され、神の右に坐しておられる。聖霊が人間に分け与えられ、神の現実(真理)が示されている。自分が現在実感できなかろうとも、体験した証言(聖書)によって、「聞いて信じる」ことができる。
 「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老は、①8歳くらいの幼い頃に、現代的な無神論にかぶれていた兄が17歳で逝去する際に示した神の世界への感激、②および同じく子供の頃に礼拝で「ヨブ記」が朗読され、幼い心に受けた感動、の二つが、決闘の日の早朝、突然心に甦った、と語っている。その時まで忘れ去っていたかつての印象が、時期が来て突然甦り、芽吹いて回心へと導いたという。聖書の証言は、畑に蒔かれた一粒の種である。時が来ると心に甦り、私達を支える。巨人絶望者に捕らえられたクリスチャンの胸に、聖霊が力強く働かれて「私に来る者を、決して拒みはしない」というキリストの約束を思い起こさせて下さったのである。
 この礼拝も、相澤が語り私達家族二人が聞く形で始まった。集めて下さったのは主である。聴く者が二人または一人であろうとも、語る言葉に力がなかろうとも、聖書の言葉は永遠の命の種である。その時期が到来すれば、芽吹いて根を下ろし私達に神の支配=神の国をもたらすのである。既に世に勝っておられる主の力(聖霊の力)に信頼し、聖書の言葉を胸に蓄え、大切にしたい。
 イエスにある者は、死者も生者も一体に結ばれて居る。ゾシマ長老の兄だけでない。世との戦いを終えた死者達も、イエスにある交わりの中にいる。彼らは、まだ世にある私達の為に祈っており、私達も彼らの為に祈ることができる。年齢を重ねる毎に、そのことを実感する。私達は、決して単独者ではない。代々の聖徒達、親達、人生で出会った者達、子供達、また、これから生まれてくる者達と共に、「既に世に勝っている」イエスに結ばれているのである。
 使徒信条は、聖霊を信じるとは、公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の生命、を信じることとしている。何故ならば、イエスは既に世に勝っておられるからである。勝利者エスを見上げ、勇気と喜びを持って主の再び来たり給う日を待ち望む者でありたい。