家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イエスについての証

2020年10月18日

テキスト:ヨハネ伝5:31~47

讃美歌:355&181

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)
3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
   前回は、三つのアーメン言葉を解き明かす形で、イエスが御子として「父が行為されることを見るのでなければ、何一つ自分から行うことはできない。父の為されることは何でも、子も同様にする」として神に絶対的に従属しご自分を無とされた。それが、かえって絶対的な権威と優越の主張となり、イエスが終末の復活と審判の大権の主体である事が宣言された。これはイエスが御自身について語ったことになるので、「自分についての証」として真実とは認められないという反論(8:13)が予想される。その反論に応える形で次の段落が始まる。
(3)イエスについての証(5:31~47)
 古代の裁判では、自己証言は嘘の可能性があるとして受け入れられなかった。この原則を受け入れたのが31節である。そして、30節までに語られた内容を今度は他者の証言を用いて証明しようとする。しかし、まず神御自身が人間に語りかけて下さらねば、人間はどうして神の事柄について知ることができるだろうか。32節の「わたしについて証言する」他の者とは、洗礼者ヨハネなどの人間的証人と受けとることもできるが、基本的には人間に語りかけられる父なる神御自身と考えるのが正しいであろう。父を知る御子イエスのみが、その証言が真実であることを知っている。ヘブル書の冒頭にあるように「神は、多くのかたちで、多くのしかたで先祖に語られたが」最後決定的に「御子によって」私達に語られた。その他の人間的証言はすべて、神が御子イエスについて語られた証言なのである。これを心に留めて読んでいきたい。
a.三つの証
①洗礼者ヨハネの証(5:33~35)
 キリスト教に対立するユダヤ人自身が、洗礼者に人を派遣して証言を求めた事を引き合いに出す。彼は自分がメシアであることを否定し、イエスを「世の罪を負う神の羔羊」、「聖霊による洗礼者」であると、真理の証言をした。イエス御自身は人間側からの証言を必要としない。だが、洗礼者の証言を引き合いに出すのは、自己弁護のためではなくあなた方ユダヤ人が(信じて)救われるためである。洗礼者は確かに「神から遣わされ人」(1:6)であった。君たちユダヤ人は、燃えて輝く灯火のようにしばしの間彼自身の光を楽しんだ。しかし、彼の指(証言)が指し示すイエスを見ようとはしなかった。(そして、洗礼者の灯火は消えた)。
②イエスの業(5:36~38)
 さらに、洗礼者の証以上に力強い証が、イエスの御業である。ベテスダの池の癒やしのように、イエスの業そのもの、天より降って貧しい者・罪人と共におられるイエスの生そのものが、神が彼によって世を救おうとする事を証している。これら人間的証人やイエスの業を通して、父なる神御自身がイエスについて証しておられるのである。
 イエスを信じないあなた方ユダヤ人は、これらの証人やイエスの業を通して語っておられる父の証を、聞こうとせず聞くこともなく、お姿を見ようとせずまた見ない。証言や業によって語っておられる神の言葉は、お前達を素通りする。神の遣わした者(イエス)を信じないことがそれを示している。 
③聖書による証(5:39~40)
  ユダヤ人は聖書の中に永遠の命があると考え、聖書を研究し尽くしている。だが、聖書(この場合は、旧約聖書)は「永遠の命をもたらす呪文」のようなものではなく、洗礼者の証言のように、救いの実態そのものであるイエスを指し示す証言(指)なのである。もし、聖書の言葉そのものにしがみつき、それが指し示す「生命を与える霊」であるイエスに来ないならば、「文字は殺す」作用をなす。これは、ユダヤ教における旧約聖書のみならず、キリスト教における新約を含む聖書についても同様である。聖書の指し示すイエス・キリストをこそ見上げねばならない。
b.人からの誉れと神からの誉れ(5:41~47)
 イエスは、人からの評価される必要はない。いままで語られてきた三つの人間的証言も、ただ人間がイエスに来る手助けであり、ユダヤ人から承認を受けようとしている訳ではない。お前達(イエスを信じないユダヤ人達)には、神への愛がないことが知られる。それらの証言を通して語っておられる神に傾聴し注目するのではなく、(神を無視して)自分の考えや判断で自力で救いを勝ち取ろうとしているからである。人間側からではなく神が、人間の救いを為し遂げようとしてイエスを世に派遣されたのに(名は人格そのものを意味するから、神から全権委任されてという意味になる)、受け入れようとはしない。もし他の人間が、自分自身の主義・思想や価値を拠り所にして(自分の名によって)人々に呼びかけるならば、人間自身の力によって救済を勝ち取るという立場は同じだから受け入れるであろう。洗礼者に感嘆し、イエスの超能力に驚き、旧約聖書の啓示を研究しても、それらの指し示す「神からの救済」を受け入れようとはしない。人間自身で相互に評価し合い、唯一の神からの評価(誉れ)に従おうとしない者達が、どうして信じる事が出来ようか。
 イエスが、信じない者達を神に訴えるのではない。訴えるのは、ユダヤ人自身が拠り所とする(旧約)聖書を書いたモーセである。(律法はモーセが書いたとされていた)。聖書は「神が為される救済」であるイエスを指し示したのである。それを信じるならば、イエスを信じる筈である。聖書の指し示す事柄を信じようとしない者が、どうしてイエスに信従するであろうか。
まとめ
 今日取り上げた箇所は、ユダヤ教に対するキリスト教ヨハネ共同体の激しい斬り込みの箇所である。ユダヤ人は歴史において唯一、神が語りかけられた民(啓示の民)であり、自分の作り出した偶像を拝む異教徒や無神論者ではない。(イエス使徒達もユダヤ人である)。彼らは啓示の書として旧約聖書を持ち、神殿崩壊後は(祭儀なしで)聖書を唯一の信仰の拠り所とした。そして、復活も永遠の命も信じていた。だが、それらの救済(復活と永遠の命)は、最後の審判時に人それぞれの行いに応じて受けられるとした。ユダヤ教徒は自力で救済を勝ち取ろうとする。
 これに対し、キリスト教ヨハネ共同体側は、救済はイエスの贖罪死(十字架)と復活によって既に為し遂げられ、エスを信じる信仰によって終末を待たず「今ここで」信仰者の身に実現するとしている。生においても死においても復活者イエスと結ばれた者となり、終末時に復活に与るとした。神の御子がナザレのイエスとなり死んで復活されたことが、神の救済そのものと信じるからである。聖書は、救済の実体=イエスを指し示す証言であり、文言にこだわってその内容であるイエスによる救いを信じようとしないならば、かえって「文字は殺す」結果を招くとした。
 ユダヤ教ヨハネ共同体も双方とも、「復活と永遠の命」を信じる信仰の上に立って戦っている。しかし、私達現代の日本人は、このような神信仰の土台の上に立っていない。神道や習俗・慣習など人間が生み出した異教的環境と、唯物的無神論のはびこる人間独尊主義の世界に生きている。私達の信仰も自ずとそうしたものの影響を受ける。「復活と永遠の命」をさえ、人間的な判断から何かにすり替えようとしていないだろうか。このユダヤ人批判を、他人事として聞く事はできない。
 私達は、聖書の証するキリスト教信仰を人間的基準で評価しようとしてはいないか。聖書の文言に呪文のようにこだわる保守的ファンダメンタリズムに陥ったり、信仰を単なるヒューマニズムや哲学に解消しようとしていないだろうか。これらは「人からの誉れ」である。
 使徒達及び聖書が証言する「イエス・キリストにおける神の救い」に驚愕し、自分の考え・判断を捨て、そこに示された神の御意志=救いを受け入れることが信仰である。
 イエスに癒やされた病人も、甦らされたラザロもやがて死んだ。これらの奇跡や地上のイエスの業も、イエスの本来的業(十字架の贖罪と永遠の命への復活)を指し示す「徴」なのである。私達は、まだ終末時の復活や神と人が共に住む世界の実現を見ていない。だが、子供の癒やしをイエスの言葉のみによって信じたあの王の近臣のように、まだ見ないが、しかし既に天に実現成就していることを信じ、忍耐と希望をもって主を待ち望む者でありたい。