家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

聖霊付与の約束-2、葡萄の木と枝の譬

2021年10月24日

テキスト:ヨハネ伝14:25~15:17

讃美歌:525&181

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
1.弟子達への告別説教(13:1~17:26)
14章(イエスが道であること、聖霊付与の約束)
 前回は、イエスを愛する者はおのずからその表現としてイエスの命令(戒め)をまもるだろうと言われ、御自分が世を去っても弟子達に同伴される真理の御霊を派遣するよう父にお願いすると約束された。この御霊(聖霊)は神的愛の実体であり、人間的理性や霊性の及びもつかない深い体験を得させて下さる。復活のイエスの命が聖霊によって弟子達にもたらされ、彼らはイエスの命に生きる。その日には、イエスが父に、父がイエスにおられるように、イエスが弟子達に、弟子達がイエスにあるようになる。愛する者を一つにする聖霊の働きによってである。従って、イエスを愛しその戒めを守る者に、父・子・聖霊の三位一体の神がやどられて、肉にあって既に神と偕なる生活が開始する。これらの言葉は、父の名において語っているのだ、とイエスは言われた。
 今回は、その続きである。
(2)聖霊付与の約束(14:15~31)-2 
  これらの言葉は、地上のイエスが既に語られたことである。しかし、その時点では弟子達は理解できなかった。だが、聖霊が降臨された時、彼らはかつての体験の真の意味を悟る。その結果、イエスを失い動揺し不安に陥った弟子達は、使徒行伝にあるように「無学な唯の人達」から、福音を力強く証する使徒達に変えられたのである。それを表現したのが26節「その方(聖霊)があなた達に全ての事を教え、私があなた達に話した事を思い起こさせて下さる」である。
 かつて地上に出現したイエスの出来事は、過ぎ去らない。歴史上のイエスの言葉・出来事が、今、福音として語られ永遠の命への希望を抱かせるのであり、それを信じる者に三位一体の神が臨在し、肉にあるままに「神と偕なる永遠の命」が開始する。そして、それが完全な形で実現する終りの日を待望させる。このように、聖霊がイエスを「今いまし、昔いまし、やがて来たり給う」方、神のロゴスとして啓示して下さるのである。
 同時に聖霊は、あらゆる試練と迫害を乗り越えさせる救いの喜びをもたらして下さる。それが、27節「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える」以下の言葉である。世が与える平和とは個人的な生活安定や政治的安定程度のものである。だが、イエスの与える平和は、「死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、…どんな被造物も」引き離し得ない神との絆、愛の交わりである。だから、地上からイエスが去っても「あなた方は心を騒がせるな、またおじけるな」とイエスは言われる。復活の主が、地上におられた時以上に信仰者を密接に支えられるのである。
 だから、イエスが世を去る事を悲しむのではなく、イエスが父のもとに帰りこのような結果(聖霊の派遣)がもたらされることを喜ぶべきであると言われた。
 28節で「父は私より大きい方だからである」とあるのは、御自分を無にして相手を尊ぶ神的愛の特質からであり、御自分を卑下し父を第一とする謙遜からであり、子なる神が父なる神より劣ることを示すものではない。
 「事が起こった時」とは、このシチュエーション(最後の晩餐)においてはイエスの逮捕・十字架死を意味するであろう。だが、現在の信仰者にとっては、恵み深い神が見えなくなる暗黒の時であろう。そのような時、イエスの十字架が闇に輝いていることを信じねばならない。イエスが人間の闇を担って下さったからである。
 こうして、イエスが弟子達に言い残すべき事は全て語りおえ、最後の晩餐は終わった。これから、この世の君(政治的・宗教的支配者達と彼らを動かすサタン)がイエスを捉え、思うままにするであろう。だが、実は彼らはイエスに対しては何の強制力もない。神への深い従順と愛を世に示すために、イエスはあえて彼らのなすがままにして父の命ずることを行われるのである。そして、弟子達に出かけるよう促された。
 以上で最後の晩餐を終え、18章にあるようにイエス一行はケデロンの谷の向こう側に移動される筈である。ところが、何の状況説明もなく15章から17章におよぶ長大な「告別説教及び大祭司の祈り」という部分が挿入されている。この内容は、これまでに語られてきた事を角度を変えて語ったものである。元々独立したヨハネ共同体の説教(長老ヨハネの訣別説教?)であったと考えられている。それ自体が一つの説教であり、読者に直接語りかけているから各自味わって読むべきであるが、ポイントを簡単に取り上げたい。
15章(葡萄の木とその枝、世からの憎悪と迫害)
(1)葡萄の木と枝の譬(15:1~17)
 この譬えは、洗礼者ヨハネの「良い実を結ばない木はことごとく切られ、火に投じられる」(マタイ3:8~10)と言う威嚇の説教を思い出させる。ヨハネ共同体は、長老ヨハネやアンデレがそうであったように元の洗礼者の弟子グループが核となっていた事が伺える。
 外面的・形式的な宗教的態度(パリサイ派の律法遵守や、単に教会に籍を置く等)ではなく、自分の生き様において神に喜ばれる実を結ばねば「火に投じられる」のである。その「実」が何かは、ここでは特定されていない。例えば「信仰・希望・愛」という対神徳や、パウロのような宣教の成果等が考えられる。だが、肝心なのは、その実を結ばせるのはその人自身ではなく、その人に働く復活の主だという事である。だから、如何に復活の主に結びつき、主と一体になるかが「実を結ぶ」ための要件である。
 人間は生きる限り、自分の考えるような自己実現を求める。だが、神と切り離された単独の自己ではなく神に従い神と共に生きる者となることが真の自己実現である。私達の願うことが全て御心に叶うわけではない。無駄な枝や脇芽を剪定するように、神は信仰者の願いや志を「手入れ」される。詩篇に「苦難は、私に良いことであった。これによって私は主の掟を学び得た」とある。苦難や試練という「手入れ」を通して、信仰者は神に信頼し、神の御心に従う道を学ぶ。
 3節「私の話した言葉」は、単数形であって、イエスが語った一つ一つの言葉ではない。ヘブル書に「御子によって私達に語られた」とあるように、十字架と復活を含むイエスの出来事全体が人間への神の言葉である。イエスの死をとおして肉において死に、彼の復活の命によって生きる事が、「私の語った言葉(イエスの出来事)によって、既に清くなっている」ことである。
 こうして肉の欲望やこの世的自己追求から解放され、信仰のもたらす希望を一心に見上げ、イエスの御跡に従いつつ生き抜く事、これが「わたしに連なる」事である。
 そのように行う人に、三位一体の神が働かれる。御霊が神の御心に叶う願いを起こさせ、イエスが神の名によってそれを叶えてくださる。だから、その人の祈りは必ず叶えられる。
 信仰者が福音を信じ、肉にあって既に永遠の命に生きるようになることは、イエスを派遣された神がその御意志を成し遂げて「栄光をお受けになる」ことである(8節)。教理問答にあるように、人生の主な目的はこれ(神の栄光を現すこと)である。
 イエスは、弟子達を愛し彼らが永遠の命に生きるために御自分を捧げてくださった。イエスの命令「私の愛に留まる」とは、自分がイエスに愛されたように他者を愛することである。
 これらの事が語られたのは「わたしの喜びがあなた達の内にある」(11節)ためという。イエスの「喜び」とは、神に愛され神を愛する喜びである。愛する者は、相手の内にある事を無上の喜びとする。聖霊という愛の炎が、神とイエスを一つに結びつけるように、人間もイエスにあって「死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、…どんな被造物も」引き離し得ない愛の絆で神と結ばれるのである。自分が愛されたように他者を愛する者は、もはやイエスの「僕」ではなく、友であると言われた(14~15節)。だが、神の愛が信仰者に愛する能力を与えるのである。
 迫害や苦難を受けつつ信仰を貫く事は、まだ神を知らない人々に福音を証することである。信仰は自分の為だけではなく、世に福音を示す意味を持つ。信仰者はその為に、立てられているのである。信仰をもって生き抜く事が「あなた方が出かけて行く」(16節)事であり、復活の主が宣教を行われることである。