家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「アブラハムが生まれる前から、私はある(エゴー・エイミー)」

2021年2月21日

テキスト:ヨハネ伝8:48~59

讃美歌:309&004

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
(5)イエスをめぐるユダヤ人の混乱
 前回は、「イエスを信じたユダヤ人達」との論争を取り上げた。イエスを信じたといっても、イエスの言葉にとどまる「本当のイエスの弟子」と、そうでない者がいる。イエスが啓示された福音(信仰義認)を受け入れず、律法義認の選民性=ユダヤ人性に固執する者は、シナゴーグ側だけでなくユダヤキリスト者の内部にも存在した。彼らとの論争は、ヨハネ共同体の福音宣教の為の戦いを反映したものである。今回はその続きである。
 ここで注を入れるようだが、シナゴーグ側とヨハネ共同体の対立といっても、元々両者は同じユダヤ教徒である。ユダヤ教内部の対立(主にキリスト論を中心)であったものが、70年の神殿崩壊後にキリスト者は異端と認定され、ユダヤ教から追放される方向に動いたのである。完全に分離しきるまで様々な過程があったことは考慮に入れておくべきである。 
h.「私はある(エゴー・エイミー)」(8:48~59)
 前回、一応イエスを信じたがイエスの言葉にとどまらず、ユダヤ人性に固執するユダヤ人達に「神に属する者は神の言葉を聞く。あなた達が聞かないのは神に属していないからである」(47節)という言葉が投げつけられた。
 ユダヤ人達はこれに憤慨して、イエス(ヨハネ共同体)が異端のサマリア教徒であり悪霊に憑かれていると非難した。事実、ヨハネ共同体にはサマリア教徒出身者が多かったのである。イエスはこれを否定し、自分は父(神)を重んじているのに、お前達はその私を重んじない、と言われた。イエスに栄光を与え義と認定される方は、イエス御自身ではなく別におられる、と話を打ち切られた。同じ事は5章で言われているから繰り返しを避けたのであろう。
 「イエスに栄光」とは、イエスの十字架と復活・昇天を意味する。そこから連想されたのだろう、突然、荘重なアーメン言葉で「私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ない」と言われた。「死を見ない」とは、「永遠の命を受ける」という事の旧約聖書的(セム語的)表現であり、5章24節「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持ち、…」以下と同じ内容である。だから、肉体的に死なないという意味ではない(事実、イエス御自身も死なれた)。
 ところがユダヤ人達は例によって文字通りの肉体的死と受け取った。そして「悪霊に憑かれている(=頭がおかしい)」と言われても仕方ないだろう、と言い返した。「アブラハム預言者達も死んだというのに、自分の言葉を守れば決して死なない等と言うお前(イエス)は、彼らより偉大なつもりか!」。イエス預言者以上の方であることを、分かっていないのである。
 イエスはまたもや「私に栄光を与えるのは、自分ではなく私の父(神)であり、お前達ユダヤ人達)が自分達の神と言っている御方だ」と言われた。これは重要である。ユダヤ人達の信仰する神は、まさしくイエスの父であり、イエスキリスト者)とユダヤ人は同じ神を信仰していることを強調された。これはマルキオン派という異端が、キリスト教の神はユダヤ教の神とは異なるとしたことに反対する為である。キリスト教の神は「アブラハムヤコブ・イサクの神」すなわち旧約聖書に証された神なのである。ナチスに影響されたドイツキリスト者は、旧約聖書信仰の伝統を否定した。それがどんなに大きな過ちであったかは、私達の記憶に新しい。決して繰り返してはならない事である。
 イエスは、ユダヤ人達は自分達の信仰する神を知らないが、自分は知っており、その言葉(神の言葉)を守っている、と言われ、「私達(ユダヤ人とキリスト者の父アブラハムは、イエスの日(イエス来臨の日)を熱望し、その実現を見て喜んだ」と言われた。死後神の御許にいるアブラハムが、イエス到来を見て喜んだのか、或いは、生前すでに「神の約束は必ず実現する」と信じる信仰において実現を見て喜んだのか、どちらかは分からない。霊は時空を超越すると考えれば、どちらもありな気がする。
 だが肉体的にはアブラハムの子孫であるイエスが、生前のアブラハムに会ったはずはない。ユダヤ人達は、「お前は50歳にも満たないのに、アブラハムを見た(会った)とうのか?」と嘲った。
 イエスは荘重なアーメン言葉で「アブラハムが生まれる前から、私はある(エゴー・エイミー)」と言われた。不可逆的時間(歴史)の創造以前の(時間的に先ではなく、創造の前提としての)根源的神的存在であると、宣言されたのである。
 イエスが「エゴー・エイミー」であるか否かをめぐる論争は結末を迎えた。ユダヤ人達は、イエスがご自分をハッキリと「エゴー・エイミー=神と等しい者」と主張される事を悟った。神は唯一であることを信じるユダヤ教徒にとって、人間がこの宣言を為すことは、神冒瀆である。「主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない」(レビ24:16)。ユダヤ人達はこの信仰的義務に従い、直ちにイエスを石で撃ち殺そうとした。だが、イエスはこれを逃れ、神殿の境内から出て行かれた。
 レビ記の殺害命令は恐ろしい。実際に、ステパノはこうして石で撃ち殺された。だが、生前のイエスは、少なくとも奇跡行為者として民衆から評価されていた。ユダヤ人達から石撃ちされそうになったとは考え難い。この状況は、地上のイエスではなく、(イエスへの信仰を告白した)原始教団やヨハネ共同体が直面した迫害が描写されているのだろう。

 8章の「イエスを信じたユダヤ人達」とイエスとの論争は、厳しいユダヤ教内部の論争から生まれた。同一宗教内の、双方の信仰を賭けた論争であった。唯一神を信じるイスラエルの信仰の中で、人間イエスを「エゴー・エイミー」(救済をもたらす為に顕現された神)と信じ告白することが、いかに困難であったかが分かる。父(神)とイエス(子なる神)が別々の神ではなく、一つ(の神)である事を、御霊の助けなしにどう説明することができるだろうか。当時のヘレニズム的宗教混淆の世界において、それら異教をよく知り、かつ決然とイスラエル神信仰に立つユダヤ人として、ヨハネ伝記者は先在のロゴス・キリスト論を福音書の形式で展開しているのである。
 紅海の奇跡がイスラエルの神信仰の根拠となったように、具体的なイエスの出来事(十字架と復活)が、私達の信仰の根拠である。イエスの出来事は、イスラエル民族の枠を超えて全人類に救済をもたらす神の業である。だが、それは簡単に分かることではない。旧約聖書に証されたイスラエル救済史を踏まえて、解き明かされねばならない。イエスを信じる「信仰の決断」を為した弟子達でさえ、エマオで復活のイエスから旧約聖書を解き明かされねばならなかった。そのように新約聖書、ここではヨハネ伝が、イエスの出来事の意味をユダヤ人との論争の中で解き明かしている。迫害と殉教をもって証言された福音を、真剣に受け止め、自分の信仰を確かなものとしていきたい。