家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

迫害と苦難に対する備え

2021年11月7日

テキスト:ヨハネ伝15:18~16:4

讃美歌:11&261

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
1.弟子達への告別説教(13:1~17:26)
 前回、イエスは間もなく御自分が捕縛され弟子達が散らされる時が切迫している事を考え、最後の晩餐の締めくくりとして、聖霊が派遣され弟子達を立ち上がらせる事を予告された。今、イエスが自分達から失われることに動揺している弟子達であるが、聖霊が付与された時にイエスが語った言葉の意味を悟り立ち上がることができる。だから、不安に陥り絶望しかけても、イエスの約束を思い起こして待つように励まされた。イエスの死から復活までの3日間、この御言葉の守りなくして弟子達はどうして持ちこたえられただろうか。絶望に陥る寸前の苦痛と動揺の中で、なお「待つ」ことができただろうか。キリスト者の人生においても、そのような時がある。一切の希望が見えない状況で「口を塵につけ」た絶望寸前でなお待つ時がある。「黙して、ただ神を待つ」力は、神の約束からくる。人間の目に何も希望が見えない時にも、イエスの約束を頼みとして待つべきである。「事が起こったとき」とはこのような時であり、心に何の喜びも感動もない時に「信じる為である」。救いは人間からではなく神から来る。聖書の御言葉を心に蓄え、神の約束を信じつつ生きる力としたい。
 もとより信仰は虚無の力に刃向かうものであるから、この世に生きる限りは戦いである。今回は、その戦いについて語られる。
15章(葡萄の木とその枝、世からの憎悪と迫害)
(2)世からの憎悪と迫害(15:18~16:4)
 この段落の世とは、世間一般の意味ではなく具体的にはユダヤ教々団を意味する。古代にあって宗教が人々が結びつけ共同体とする役割を果たした(同じ祭儀による政治的結びつきを含む)。だから、たとえ領土が失われてもユダヤ教という宗教によって、ユダヤ人の民族的結合が保たれたのである。だが、その宗教の中で「異端」が発生した場合、異教徒とは共存可能であっても、内部からの崩壊を防ぎ自己のアイデンティティーを保つために「異端」は激しく排除される。キリスト教の歴史から考えても、旧教徒が新教徒を如何に迫害し殺害したかの数々の実例がある。カルビンは火刑を逃れるために、ジュネーブに逃げなければならなかった。清教徒革命は殺し合いの戦争であった。同様に、当時のユダヤ教は内部に発生したキリスト教という「異端」を激しく迫害したのである(政治的権力はもたなかったから戦争にはならなかったが)。
 キリスト教は、ユダヤ教内部の一派として発生し、異端と認定されてユダヤ教から排除された。信仰と生活の母体であるユダヤ教からの憎しみは、敵からの憎しみに勝って辛い。「私に刃向かうものは敵ではありません。それならば耐えることができます」という詩篇の言葉どおりである。また、迫害は単なる感情的憎悪ではなく、命に関わるものであった。実際、長老ヨハネはじめ共同体のメンバーは、神の都エルサレムでのステパノ、使徒ヤコブ、主の兄弟ヤコブらの殺害を体験した。エルサレム陥落後は、公認宗教ユダヤ教から追い出され、彼らの告発により直接ローマ当局の迫害にさらされたのである。ユダヤキリスト者は、御自分の民から憎しみを受けた主の苦しみ(その愛する民に背かれた神の苦しみ)の幾分かを味わったのである。このような事態を耐え抜く力は、彼らが憎まれるよりも先に、まずイエスが「世」の迫害の対象であった事であろう。頭なる主が「世」から苦しみを受けそれを克服されたからこそ、その弟子達が「世」から苦しみを受ける事が主の勝利に与る徴とされるのである。
 「世=ユダヤ教」は、誰にもまねのできないイエスの業(奇跡)を見て信じるべきであるのに、かえって彼を自分達の宗教に違反する者として処刑した。それは、彼らが自分達の考える宗教を愛し、神から来たイエスの贖罪と復活による救いを拒否する反逆の証拠であると言う(24節)。「彼らは故なく私を憎んだ」は詩篇69:5からの引用であり、理不尽な拒否と憎しみを受けていることを訴えた言葉である。
 実際、イエスイスラエルが待ち望んだ救い主と信じるキリスト者は、イスラエル宗教の権威を自任するユダヤ教法廷で断罪された。神に熱心であったパリサイ人パウロも、キリスト者を迫害することが神に奉仕する道と信じたのであった。それまでの彼の信仰(律法による義)を根本から覆し、イエスの十字架と復活による義を知らしめたのは復活の主御自身、すなわち聖霊の照明によった。聖霊ユダヤ教法廷で断罪された殉教者達の義を証し、迫害者らの不義を明らかにした。聖霊に教えられなければ、人間は自分の迷妄から解放されないのである。だから、この段落は聖霊による証を力説している。ヨハネ共同体は、迫害と苦難の中で聖霊の力と証を体験したのであった。
 だが、現代の私達はこのような迫害の中にはいない。一応信教の自由が認められた社会に生きていて、ヨハネ伝成立当時とはかけ離れた状況の中にいる。この文書をそのまま現代の私達の状況に当てはめ、現代のユダヤ人達や他の宗教者を敵視することはできない。ヨハネ伝が生み出されたこうした時代状況を理解し、聖霊の力と働きが宗教的政治的共同体から分離する苦しみの中で体験せられたことを学ばねばならない。
 「文字は殺し、霊は活かす」。信仰とは、本来「天使をも裁く」ものである。イエスは形式的な律法遵守を批判され、罪人の友となられた。また、キリスト教もかつて邪宗門とされ、ユダヤ教の異端として迫害された。だから、社会的差別を受け疎外されている者に対し心を開き、事例に応じ愛に基づく霊的な判断と対応を為すべきであろう。
 個人的には、孤立し途方に暮れる「その時が来たとき」、聖霊の助けによって主の語られたことを思い起こし、神の御心を学びえるよう心したい。「悩みの日に我を呼べ、我汝を助け、しかして汝我を崇むべし」とある。人間的に途方に暮れる時こそ聖霊の助けが体験せらるる時である。自分の人間的こだわりから自由になって、神の御心を問いそれに従う者でありたい。
 少しテキストから外れたが、今日はここまでにしたい。