家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

洗礼者ヨハネの証言

2020年5月31日

テキスト:ヨハネ伝1:19~34

讃美歌:11&216

 ヨハネによる福音書本文の構成
 前回までで、この福音書全体の序文を一応読み終えた。今回からは、いよいよ本文に入る。本文は前半(救済者の地上の働き)と後半(救済者の天への帰還)に分かれ、それに補遺(テベリア湖畔の顕現)が追加されている。
                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)
1.洗礼者ヨハネの証と弟子の召命(1:19~51)
(1)洗礼者ヨハネの証(1:19~34)
a.サンヘドリンの審問官に対して
 洗礼者ヨハネの活動と宣教は国中で大変な反響を呼び、庶民ばかりでなくサドカイ人やパリサイ人まで大勢の人達が押しかける有様であった。「民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた」(ルカ3:15)。
 当時の宗教的指導者層(サンヘドリン)は、そうしたカリスマ的宣教者に「律法違反」や反ローマの「反乱の芽」がないか警戒して監視していた。彼ら「ユダヤ人達」(ヨハネ伝ではキリスト教に敵対するユダヤ教指導者層を意味している)は、本拠地エルサレムから祭司やレビ人(祭儀の下役人)を派遣し、洗礼者を審問した。
 先ず、①民衆の期待するような者(救主)を自称するかどうかを審問した。洗礼者は、自分はメシアではないと明確かつ公然と告白した。それでは、それに代わる終末時救済者、②再来のエリアを自称するかを問うたが、否定した。(エリアは火の車で天に昇ったので、終末に天から下ってきてメシア出現を準備すると言われていたからである)。それでは、③「あの預言者か?」(申命記18:15~18で終末時に「モーセのような預言者」が出現すると預言されてた)と問われて、それも否定した。結局、洗礼者は自分は終末時に待望されていた①メシア②再来のエリア③モーセの如き預言者のいずれでもないと言ったのである。
 それではお前は自分を何者と言うのかと言われ、洗礼者は自らを、イザヤ書40:3の主の道を備えよと「荒野で叫ぶ声」だと称した。洗礼者を「荒野で叫ぶ声」とすることは全福音書に共通している。だが共観福音書が彼を主の道を準備する「使者」と位置づけるのに対し、ヨハネ伝では、洗礼者自身は、自分をそうした「独自の任務」すら持たない(履き物の紐すら解く値打ちのない)卑小な預言者(声)と意識していたとする。実際は、イエス御自身も彼を再来のエリアと評価しておられるのだが、本人は「後から来られる方」の偉大さの前に、自らの卑小さをひしひしと感じていたのである。
 34節は審問官達をパリサイ派としている。だが、エルサレム神殿の宗教的権威はサドカイ派が占めており、実情に合わない。当時を知らない福音書編集者による、再建サンヘドリン(パリサイ派中心)への批判を込めた加筆と思われる。
 「そうだとしたら、どうして洗礼を授けるのか?」と反問された。これは、エゼキエル36:24~6「わたし(神)は清い水をあなた方に注いで、すべての汚れから清め、…石の心を除いて,肉の心を与える」やゼカリア13:1「罪と汚れを清める一つの泉が…開かれる」等に依拠し、終末時に水を注いで民を清め、神の民を集めるのは、(メシアやエリアや「あの預言者」といった)終末的救済者の業とされいる。だのに、そうした終末時救済者ではないというお前の授ける洗礼は、何の意味があるのか、との意味である。祭儀的清めの専門家(祭司とレビ人)を自負する者らしい言葉である。
 これに対し洗礼者は、真っ正面からは答えない。ただ「あなた方(ユダヤ人)の間に、あなた方が知らない方が、すでに立っている」とだけ言った。審問者らのような「ユダヤ人」達が知ろうとせず知ることもない方が、現在すでに到来して「あなた方の間に」立っておられる。つまりその方が、自分が授けている水による洗礼の意義を明らかにするであろう、との意味が込められている。即ち33節にあるが、水によって洗礼を授けることは、「聖霊によって洗礼を授ける」ことの準備・備えなのだと言いたいのである。キリスト教の洗礼は、これを受け継いだ、というよりも成就した。水による洗礼が、「聖霊による洗礼」を指し示す徴となったのである。
 審問官への証言がなされたのは、「ヨルダン川対岸のベタニア」と具体的地名を挙げて実証しているが、エルサレム近郊のベタニア村ではなく、現在では何処に位置するか不明である。
b.「神の羔羊」および「聖霊による洗礼者」としてイエスを指し示す
 その翌日(というのは、必ずしも一日後という意味ではなく、継続して起こった出来事の順番をしめす時期的表示として受け止めたい)、洗礼者はイエスが自分の方に来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の羔羊!」と言った。(読者がすでにイエスを知っている事が前提とされている。ヨハネ伝は、未信者を対象の伝道というよりも、すでに信じてキリスト者となった者達の信仰を励ます目的で執筆されたことがわかる。)そして洗礼者は、イエスこそは自分が預言した「後から来る、私に優越する、先在の方」であり、自分の水による洗礼は、この方の出現に備えるものであった、と証言した。
 「神の羔羊」とは、①出エジプト記十二章の過越の羔羊(その血は鴨居に塗られ、肉は焼いて食べられた)、②レビ記十六章の贖罪の雄山羊(民の罪を負って追放される)、そして③創世記二十二章でアブラハムがいう「神みずから備え給う燔祭の犠牲」、のすべてが込められている。イエスは、
 ①人間を死と滅びの審判から過越させるために屠られ、その血と裂かれた体(聖餐)は民を養う。
 ②彼の死は、民を代理し、民の罪を負って生ける者の地から追放されることであった。
 ③そして彼こそは、アブラハムが預言した「神みずから備え」給うた燔祭の犠牲であり、アブラハムにおけるイサク以上の自分の独り子を、民の罪を贖うために「神自ら備えた」犠牲である。「(神は)御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである」(ロマ8:3)。ロゴスの受肉(死ぬべき体)はその為のものであった。
 全福音書がイエスを罪を贖う「過越の小羊」と見ている。だが、イエスを「羔羊」と呼ぶことは、ヨハネ共同体の特徴となっている。洗礼者は祭司階級出身であり、長老ヨハネもそうであった。祭司は、「血を流すことなしに罪の赦しはありえない」(ヘブル書)ことを職務上深く会得している。だから、イエスを見た師の洗礼者が彼を(屠られるべき)「神の羔羊」と呼んだことは、それを聴いた長老ヨハネの心に深く刻まれた。そこから、イエスが血を流して十字架に死なれた時、地上での使命を果たされた見るのである。なお、同じ「過越の小羊」の観念から、共観福音書はイエスの死を過越当日としているのに対し、ヨハネ伝は神殿実務上、実際に過越の小羊が屠られ、その血が採取される、過越の一日前の準備の日としている。そして、その方が史実に近いようだ。
 さて、洗礼者はイエスを、あらかじめ「その方」だとは知らなかった。だが、水による洗礼を授けるために彼を派遣した方(神)が、「その方」を識別する徴として「聖霊が鴿の如く天から降り、その人のうえにとどまるのを見たら、その人こそ聖霊によって洗礼を授ける人である」と示された。そして今や、彼は(霊的な幻視として)まじまじと、天から聖霊が降りイエスの上にとどまるのを見た。生誕時には、占星術師らがお告げの星が幼児の上にとどまるのを見た。星の光が何かの上にとどまるなど、通常体験ではない。同様に、聖霊がイエスの上にとどまるのを見るのは、肉眼ではなく霊的な目撃である。エリシャの僕の「眼が開けて」天の軍勢がエリシャと自分を囲むのを見たように(列王下6:11~17)、洗礼者は霊的な眼を授けられたのである。
 この徴によって、洗礼者はイエスについて二重の証言を為した。即ち①民の罪を負う「神の羔羊」②水による洗礼を意義づける「聖霊による洗礼者」である。キリスト教の水による洗礼は、キリスト御自身が授ける(目に見えない)「聖霊による洗礼」の、目に見える徴なのである。
 ヨハネ伝は、イエスの洗礼や、その後の荒野の試練を省略している。おそらく荒野の試練を済ませ、イエスが霊的オーラを漲らせて洗礼者のところに戻られた時の出来事であろう。そして、洗礼者はイエスを信仰の対象たる「神の子」と、最初に告白し証言したのである。