家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

新しい命令

2021年9月12日

テキスト:ヨハネ伝13:31~38

賛美歌:124&181

                      B.救済者の天への帰還(13:1~20:31) 
1.弟子達への告別説教(13:1~17:26)
13章(最後の晩餐、洗足と弟子の裏切りの予告)
 洗足を終えたイエスは、御自分が世を去った後に福音宣教に遣わす弟子達に、僕(奴隷)として奉仕すべき事を教えられ、かつ御自分の権威を授けられた。このように弟子達を愛し通されたが、彼らの一人に裏切られ、残りの者は散らされる事を思い、激しく心を動かされて「あなた方の一人がわたしを裏切ろうとしている」と告げられた。だが、ユダに「「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われ、自ら進んで十字架を負う決意を示されたのである。ユダは、イエスに促されて直ちに行動に移り、その場を出て行った。
(4)-1 イエスが、弟子達を遺して世を去ること(13:31~38) 
 ユダが出て行き、受難が後戻りできない形で開始したことを見届けたイエスは、「今や人の子は栄光を受けた」以下を語られた。「人の子」とは、終末時に審判者として天から降ってくる救済者を意味する黙示思想用語であるが、イエスがそう自称されたと、どの伝承も伝えている。ヨハネ伝は、終末時をまだ到来しない時とは見ない。地上にイエスが来臨されたと同時に、終末が開始したとする立場である。地上のイエスのお働きが既に世に対する裁きなのである。「人の子」が栄光を受けるとは、彼が本来の業(十字架の贖い)を成し遂げる事である。同時に、彼を世に遣わした神が、人間を罪から浄める御業を成就されて、栄光をお受けになる事でもある。
 神が「人の子」によって栄光をお受けになることは、受難が既に開始しているから過去形で語られ、神に栄光をもたらす「人の子」イエスに、「神御自身が栄光をお与えになる」こと、つまり復活と高挙は、最後の晩餐の時点ではまだ実現していないから未来形である。イエスが死んで葬られてから復活までは少し(三日)時間がある。だから、イエスは「しかも、すぐにお与えになる」と受難と、その出来事(復活)の間隔が短い事を強調された。
 しかし、イエスが十字架死されたら、もはや地上にイエスはおられなくなり、弟子達は取り残されてしまう。弟子達がイエスと共にいられる時間はあと数時間なのである。それを思って、彼らと一緒にいられるのは今しばらくだと予告された。それが過ぎてしまえば「あなた方はわたしを捜すだろうが、『わたしの行くところにあなた方は来ることができない』」。これは、以前からユダヤ人達に語られた言葉であるが、その時点では弟子達は例外としてイエスに同行できた。だが、間もなく、弟子達からもイエスは取り去られてしまう。
 (34~35節は、後で取り上げる。)イエスが自分達を残して一人去ると言われて、弟子達は不安になった。シモン・ペテロが「主よ、どこに行かれるのですか(クオ・ヴァデイス、ドミネ)?」と尋ねた。どこに行かれるにしても、わたしもお供させて下さいという気持ちである。イエスは、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来る事はできないが、後でついて来ることになる」と言われた。イエスが神を愛し、神の御心に従って苦難を受ける道に、人間的な愛でしかイエスを愛していないペテロはついてくることができないのである。だが、聖霊が、イエスが神を愛すると同じ愛をペテロにもたらす時には、イエスを神的愛によって愛し、イエスに従って殉教の道を歩むことができる。神的愛というのは、聖霊の与える愛だからである。
 しかし、人間的には熱烈にイエスを愛し慕っていたペテロは、それが分からなかった。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言った。だがイエスは「わたしの為に命を捨てると云うのか?アーメン、アーメン、あなたに言う。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた。これは、全ての福音書が取り上げている有名な伝承である。最後の晩餐に同席した弟子達全員が聞いている。また使徒ペテロ自身も、予告通りイエスを否認してしまい、復活のイエスから赦された体験を繰り返し語ったのであろう。だが、福音書によって伝承が少しずつ違う。ヨハネ伝のものが、最も古い形の伝承であろうとされている。
 人間的な決意や愛は、無力である。ホンの些細な事で覆ってしまう。聖霊によらなければ誰も、イエスが神を愛し、神がイエスを愛するような神的愛で愛することができない。
(4)-2 新しい命令(13:34~35)
 33節で、御自分が弟子達を遺して世を去る事を予告されたイエスは、遺される彼らの為に「わたしはあなた方に新しい命令を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という有名な言葉を語られた。
 だが、愛し合う事は自体は、別に新しくない。「神を愛し、自分のように隣人を愛する」事は律法の要約なのである。「新しさ」は、これがイエスの血による「新しい契約」に基づくものであり、「旧約」における「律法」に取って代わるからである。しかし、「新しい契約」は双務契約ではなく片務的な神の約束であるから、これに背いても契約が破棄されるようなものではない。言わば、行動基準のようなものであり、「命令」と言うより、親が遺言するような「言い遺し=言いつけ」である。内容的には、少し前の「互いに足を洗い合いなさい」と似ている。原ヨハネ伝にはなかったものを、後代の編集者が、まとめや要約の意味を込めて33節直後に挿入したと考えられている。従って、33節に続くお言葉として読むべきであろう。
 ここで肝心なのは「わたし(イエス)が愛したように」という「愛」であろう。イエスが弟子を愛する愛は、神がイエスを愛し、イエスが神をする愛、つまり父なる神とイエスを結ぶ愛である。これこそが聖霊なる神である。その働きは、生命であり、相手に自分を捧げる愛である。イエスの贖いを受け入れた者は、自己追求する「肉の生命」をイエスの十字架によって死んで過ぎ去ったものとする。そして、まだ地上で肉にあって生きる自分を、「わたしを愛し、わたしの為に身を捧げられた」(ガラテヤ2:20)イエスに委ねて生きる。するとイエスが派遣した聖霊が、その人の中に働きその人を用いてイエスの業を為す。パウロが云ったように「もはや私が生きるのではなく、キリストが私の中に生きて居給う」の境地である。まだ肉にあっても、既に復活のイエスの生命によって生きるそのような人は、イエスが弟子達を愛した愛(=聖霊の働き)で、他者を愛することができる。もはや血縁や、個人的な好悪(友情・性的な結びつきほか)、利害関係等の人間的要素は消え去り、神が自分を愛して下さった愛で、相手を自分と同じ「兄弟」として見、愛するのである。だから、決して信仰を同じくする者同士の狭い範囲の「兄弟愛」ではない。
 生まれながらの人間に不可能なこのような愛が、聖霊によって「新しく生まれた」人間に出現する。だが、決してその人自身の愛の力で愛するのではなく、その人の中に働く聖霊の力によって愛するのである。34節の命令が実行可能であるのは、聖霊がその人を動かすからである。
 私達の身にそれが実現するとは信じがたいように思える。だから、実際に起きた例を見てみよう。ピレモンという自分の家を礼拝場所として提供している人がいた。彼は使徒パウロによりキリスト者となった。その人の家の教会に、エペソの牢獄にいるパウロから手紙が届いた。それを届けたのは、なんと彼の家を逃亡した奴隷の若者「オネシモ」であった。オネシモはエペソでパウロによりキリスト者となった。牢獄にいるパウロはオネシモを側に置いて自分に仕えて貰いたかった。だが、ピレモンの奴隷を無断で横取りする事はできないとして、彼を主人であるピレモンの元に返したのである。オネシモも、処罰覚悟で戻った。パウロは、「もはや奴隷としてではなく、愛する兄弟として」オネシモを受け入れるように懇願している。詳しくはピレモンへの手紙を読むこと。その結果どうなったか。オネシモはコロサイ教会に「あなた方の一人、忠実な愛する兄弟」(コロサイ4:9))としてパウロから派遣されている。また、彼は言い伝えによれば後にエペソの監督になったという。ピレモンは、彼がそのような働きができるよう、彼を赦しただけでなく、彼を解放し自由人としたのである。奴隷を所有使役することは当時は当たり前の事であった。また、奴隷も自由を求めて逃亡したがることも人間としては当然である。だが、ピレモンとオネシモは、主にあって、こうした利益相反を超えて、主人でも奴隷でもない兄弟同士として相手を尊重し、互いに愛し合うことができた。聖霊はこのように働き、イエスの弟子達を徴づけて下さる。
 私達自身は弱く、何の力もない。だが、自分の力ではなく主と聖霊の助けによって、互いに愛し合うという主の命令を行うことが可能なのである。また、その願いと確信を常に持っていられるよう祈りたい。