家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「わたしの羊」、良い羊飼い-3

2021年4月18日

テキスト:ヨハネ伝10:22~42

讃美歌:525&249

        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
 前回、イエスが「良き羊飼い」として、贖罪の死を遂げ、復活して下さった事を学んだ。彼の死と復活は、ひとえに私達人間が罪において死に、イエスの復活の生命(御霊)によって生きる為であった。それが、世の支配者・主として、神がイエスに命じられた定めである。 
 パリサイ人達に語られた以上の話を聞いたユダヤ人達は、イエスの驚くべき業(先天的盲人を開眼させる等の奇跡)と考え合わせ、イエスを「悪霊憑き」と断ずるか混乱と不安に陥った。今回は、その続きである。
(7)良い羊飼い(10:1~42)
d.神殿奉献記念祭での論争(10:22~39)
 神殿奉献記念祭とは、ヘブライ語ではハヌアといい、現在でもユダヤ教の祭として行われている。セレウコス朝のアンティオコス四世エピファアネス(在位BC175~164)は、ユダヤをヘレニズム化するため、徹底的にヤハウェ礼拝と律法遵守を禁止した。違反者を死刑で弾圧し、エルサレム神殿にゼウスの祭壇を建てた。だが遂に、BC164年キスレウ月(現行暦11~12月)25日に、マカベア家のユダが神殿から異教の神像を除き、新しい祭壇を奉献した(1マカベア4:36~59)。これを記念し、同時にソロモン神殿と第二神殿奉献を回顧する意味を籠めた祭であり、仮庵祭にならって8日間灯火を燃やし続けた(Ⅱマカバイ1:18以下)。
 神殿奉献記念祭期間中、イエスが神殿の「ソロモンの廊」を歩いておられた。「ソロモンの廊」は、神殿の広大な前庭(異邦人の庭)を取り囲む柱廊の東側部分にあり、異邦人も入ることが許されたから、よく説教が行われる場所であった。使徒行伝には、ペテロ等使徒達もここで活動したことが語られている(3:11,5:12等)。イエスも、説教をするため歩いておられたと思われる。
 すると、イエスに対する不安と混乱に陥ったユダヤ人達が、彼を取り囲んで言った「一体いつまで、じらすのか!あなたがメシアなら、ハッキリ言って欲しい」。しかし、もし信仰が人間側の主体的決断の事柄であるなら、このような問いを提出すること自体が間違っている。信じるか否かは、あくまでも自分側の問題であり、その対象であるイエスの問題ではない筈である。
 だからイエスも、まっすぐにはお答えにならない。25節「私は言ったが、あなた達は信じない。私が父の名によって行う業が私について証している」。しかし実際には、イエスがご自分が何者かを公言されたのはサマリアの女と元盲人だけであり、ユダヤ人達にはハッキリと明言されていない。彼らは、イエスが父の名によって行う業(奇跡等)によって、判断すべきである。イエスの業が、彼が何者かを証し、イエスについて言葉以上に「語っている(言った)」からである。
 26節「ところがあなた達は信じない。私の羊ではないからである」。だがイエスは、ユダヤ人達がイエスを信じない理由は、彼らの決断の問題ではなく、イエスが召し出した羊(民)ではないからだ、と言われた。つまり、選民イスラエルという「囲い」の中に、イエスの民とそうでない者がいる、と言う事である。これは、ジョン・バニアンが苦しんだような宿命的予定説なのだろうか?仮にそうだとしたら、キリスト者は自分が救いに選ばれたことを誇り、そうでない者を見下げる、悪い意味の選民意識に陥ってしまう。だが、そもそもイスラエルが「神の民」として選ばれたのは、なんの資格も業績もない弱小民族だったからであり、神の選びが人間側の資質や行いによってではなく、全く神の自由な恩寵によるということを示すためであった。この事は、旧約聖書にも度々記載されており、生粋のユダヤ教出身者達であるヨハネ共同体(その中心は祭司階級出身であった)は、当然よく理解していた。だから、26節が語るのは、宿命的予定説ではなく、イエスを信じる信仰は、その人自身の判断や決心ではなく「全く自由な神の恩寵の選び」、すなわちその人に対するイエスの選びと召しによるのだ、と言っているのである。信仰は神の主権的選びによるということである。
 また、その選びは群れとしてまとめて一緒にではなく、それぞれの個人に対してのものである。その時期も一様ではない。パウロは、最初はイエスを迫害する者(イエスの羊でない者)であった。だが、神のご計画に従い、ある時点で召されて使徒(つまりイエスの羊)とされた。彼も、ユダヤ人達がイエスを拒絶している問題を、ロマ書9章から11章までで取り上げ「神は、ご自分の民イスラエルを退けられたのであろうか。決してそうではない」(ロマ11:1)と述べている。「私の民でないものを、私の民とする」とのホセアの預言は、異邦人から始まって、遂に現在はイエスを拒むイスラエルにまで至る。だから、信仰を与え召して下さることも神のご計画によるのであり、人間側の主体的決断によるのではない。ただ神の恩寵によってのみ、これがヨハネ伝の予定説である。私達異邦人すら召して下さった神が、どうして選民イスラエルを捨てられることがあろうか。
 また、こう考えるべきである。イエスは、「神から捨てられた者」を代理して死なれた。だから、「神に捨てられた者」は、自分のために死んで復活して下さったイエスに望みを置くべきである。
 イエスに従う者達は自分の肉の生命だけではなく、イエスから分け与えられた霊の生命によって生きる事が可能となる。だから、イエスと彼らは同じ生命(御霊)によって相互に結びついており、イエスが生きる永遠の命は彼らの生命となり、彼らは決して滅びない、何者もイエスの手から彼らを奪うことはできない。これを、27~28節が語っている。
 永遠の命を与える主体は、父(神)ではなくイエスである。「死に至るまで従順」であった義人イエスが勝ち取った復活の生命(神と共に生きる生命)を、イエスがご自分の民に分け与えるからである。彼ら一人一人を父が別々に復活させるのではなく、イエスが彼らを自分の身体(骨の骨、肉に肉)として復活させるのである。イエスは身体をもった真の人間として人間に連帯される。
 このように、父(神)はイエスに、全てのものより偉大な「その民を選び出し、永遠の生命へと導き、復活させるという一切の権能」をお与えになった。その父(神)の御意志を何者も妨げる事はできない、と29節は語っている。神の救済の計画が、イエスによって執行されること、これが神の御意志である。だから、30節「(イエスと父(神)とは一つである」、と宣言された。
 これを聞いたユダヤ人達は、人間(イエス)が神と一つであるという冒瀆の言葉を聞いたと思った。だから、レビ記の命じる通り石撃ち刑にすべく、直ちに石を取り上げた。
 31節に「再び(石を取り上げた)」とあるのは、8章59節で「アブラハムが生まれる前から、私はある」と言われた時にも、石撃ちされそうになったからである。ヨハネ共同体は、確かにイエスを神として礼拝し宣教した(「わが主よ、わが神よ」20:28)。だが共観福音書によれば、地上のイエス御自身は、そう公言されていない。にもかかわらず、共観福音書もイエスが故郷ナザレで受け入れられなかった(マルコ6:1~6、ルカ4:20~29)と記している。ルカ4:29の崖から突き落とそうするとは、突き落とした上から石を投げ落として殺害する、つまり石打ち刑を意味する。明言しようとすまいと、イエスの言動の神的威厳・権威が、ユダヤ人達にイエスに殺意を起こさせるほどの恐れを引き起こしたのである。
 だが、32節以下の論争は、明らかにシナゴーグと分離・対立したヨハネ共同体の言葉である。そうでなければ「あなた方の律法」と、律法を相手方だけのもののようには表現しない。イエス御自身およびヨハネ共同体が行った善き業(癒やし奇跡等)の故ではなく、イエスを神と同一視することが対立の根幹であった。
 ヨハネ共同体はここで詩篇82:6「あなた方は神々だ」を引用する。詩篇ユダヤ教正典に組み入れられたのは、神殿崩壊後の1世紀末であり、ヨハネ伝成立がその頃であったことを示している。「神の言葉が臨んだ」つまり権威を与えられた預言者や君侯達が「神々」と言われるなら、父が聖別し世に派遣されたイエスを「神の子」と呼んでも冒瀆ではないと主張した。ここに挿入された「(旧約)聖書が廃棄されることはあり得ない」との確信は、ヨハネ共同体が生粋のイスラエルであることを示している。イスラエルの信仰に証されないキリスト教信仰はあり得ない。
 そして、イエスの業(イエス御自身およびその名による弟子達の奇跡)が決して人間業ではなく、神の力によると認めよと迫る。そうすれば、それを行ったイエスが、父(神)と一体であることを悟る筈だ。だが、それ(イエスと父が一体との言葉)を聞いたユダヤ人達は、ますます激昂した。信仰が生起するのは御霊によってであり、証拠や理性的判断からではないからである。
 ヨハネ共同体や原始教会の宣教が迫害される以前に、イエス御自身の宣教がこのようにユダヤ人から迫害された。だが、イエスはその場から逃れて立ち去られた。
e.ヨルダン川の向こう側で(10:40~42)
 このように、イエスの神的権威が明らかになるにつれ、ユダヤ人達の反発はますます激しくなった。故郷ナザレでもそうだが、エルサレムでは二度までも、石打ちされかかった。妨害を避けるため、イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた「ヨルダン川の向こう側」ペレア地方に行き、そこに滞在された。ユダヤ総督直轄地であるユダヤ地方(エルサレムが中心)は、すなわち自治権的警察権がイエスを弾圧するサンヘドリンにあったが、ペレアはヘロデ・アンティパスが支配し、サンヘドリンの警察権が及ばなかったからである。だが、ヘロデ・アンティパスも民衆の蜂起を恐れて洗礼者を殺害したのであり、決して安心して活動を続けられる場所ではなかった。
 ペレア地方はユダヤ地方から見れば辺境に当たるが、イエスはそこでも盛んに活動され、多くの者達がイエスを信じた。その事は、マタイ伝19~20章にも記載されている。
だから、秋の仮庵祭にガリラヤからエルサレムに上られ、翌年春の過越祭で十字架につかれるまで、約半年近い間、エルサレムとその周辺ユダヤの地域で活動されたというヨハネ伝の記述は、過越祭直前にエルサレムに到着され、1週間ほどの滞在であったとする共観福音書の記載と大きく異なるが、必ずしも不自然ではない。
 人々は、洗礼者は何の業=奇跡も行わなかったが、彼がイエスについて証したことは、ことごとく本当であったと語った。