家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

世に残る弟子達の為の祈り

2022年1月9日

テキスト:ヨハネ伝17:6~26

讃美歌:1&348

                        B.救済者の天への帰還(13:1~20:31)
                                           
1.弟子達への告別説教(13:1~17:26)
 前回は17章「大祭司の祈り」の内、御自分の為に祈られた部分を取り上げた。父を啓示するために、イエスは御自分に神の独り子としての栄光を現して下さいと祈られた。肉の目から見れば、イエスの地上での御生涯と死は、当時のユダヤの一宗教家の生涯に過ぎない。だがそれは、生命を創造された神御自身が一被造物である人間になる程までに人間に連帯された、という前代未聞の出来事だったのである。この事実を弟子達に啓示して下さいと祈られた。
 神であり人間であるイエスにおいて、全の人は神に結ばれる。神はイエスに全ての人間を支配する権能をお与えになった。彼を信じる者に、彼は御自分の永遠の生命を分け与える。言い換えれば、イエスにおいて神を知ることが、神に愛され神を愛するという永遠の生命に入ることである。

 イエスは地上で生きられた御生涯において、人間的生を神が愛し祝福されることをお示しになった。今や死を目前にして、肉的生死を超えた先在の御子としての栄光を現して下さいと祈られた。それは、霊的身体を持った人間として復活し、神の右に座する栄光をお与え下さいという意味である。
 イエスは御自分の肉の身体の死によって、人間の罪の結果である死を呑み込み滅ぼされた。そして、神と共に生きる栄光の「身体を持った人間」として復活し、人間の首として支配されるのである。
 イエスの地上の御生涯は誰の目にも見えた。だが、復活のイエスは、御自分を現そうとして選んだ者にだけ啓示される。今回は、そのように選ばれ、彼を受け入れた者達=信仰者達の為の祈りである。
17章(大祭司の祈り)
(2)世に残る弟子達の為の祈り(17:6~19)
 地上のイエスはその言動によって、父(神)がどのような方であるかをお示しになった。それが6節「御名をあらわしました」の意味である。だが、それを受け入れ信じた者はごく僅かな弟子達だけだった。パリサイ人ら律法遵守主義者は彼を律法に背くと批判し、ローマ支配からの独立を望む民族主義者達は彼を利用しようとし、反対にローマ支配を利用して自治権を保とうとする宗教的支配層は彼を危険分子と判断した。結局、「神からの言葉=イエス」を、そのまま受け入れ信じた者は少数であった。
 イエスの言動と御生涯に示された神を信じることが、「御言葉を守る」ことである。それを為し得るのは、当人達の努力や資質ではなく、ただ神の自由な恩寵の選びによる。神の創造された人間は本来神のものである。その中から神が選んだ少数の者が、イエスに与えられて弟子=信仰者となった。ヨハネ共同体は、自分達をそのような恩寵の選びによってイエスを信じる者とされたと自覚している。イエスに結ばれ、イエスの「骨の骨、肉の肉」つまりイエスの身体の一部となり、信仰を持たない世(人間)から分離された者となったのである。彼らは「世」からの迫害と憎悪、そして自分の中に残る「罪の法則」の誘惑という試練の中に存在している。
 だから、イエスは世を去るにあたり、「世に残る」弟子達=信仰者達のために「御名による」守りを祈られた。「御名による」守りとは、人間自身の力ではなく聖霊の働き、すなわちパウロがいう「弱いところに完全に働く神の力」による守りである。勿論、人間自身もこれら闇の勢力に立ち向かおうとする。だが、勝利するのはその人間ではなく彼に働く主の力なのである。
 そして驚くべき言葉がそれに続く。「わたしたち(神とイエスのように、彼ら(弟子達)も一つになるためです」。
 弟子達が一つになるとは、どういう意味か。二つ考えられる。一つは、全ての人間が身分や民族、時代を超えて差別なく連帯するという意味。これは、人間同士の間柄についてである。もう一つは、イエスが父と一つであるように、信仰者一人一人もイエスに結ばれて、神の御意志に従って生きること、すなわち、イエスの身体として生きることである。パウロが「もはや私が生きるのではなく、キリストが私の中で生きておられる」といったように、自分の生においてイエスが生きておられるようになることである。信仰者は、地上でのイエスの身体として生きねばならない。この祈りにおいては、後者が当てはまるように思える。
 だがこの両方とも、本質的な違いはない。イエスが神と堅く一致しておられるように、信仰者達もイエスに結ばれて一つとなっているのであり、神は彼らをイエスに属する「子」として愛し、彼らも神を「父」として愛する。同時に、人間同士の間柄において他者は主のお身体の一部であり、性別、能力、時代を超越した兄弟姉妹なのである。信仰者同士だけでなく、全ての人が宗教や人種・文化を超えて、イエス・キリストのものであると信じるなら、人間は皆兄弟だといえる。
 12節はちょっと辛い。地上のイエスは弟子達を保護されたが、「滅びの子」(ユダ)だけが滅びたとされている。初期教会にとって、十二弟子の一人の裏切りがどんなに大きな重荷であったか分かる。これを「聖書が実現するため」とするのは、神の計画の図りがたさへの畏敬からである。誰が救われ、誰が滅びに定められているか、という問いは、人間がそれを判断できるかのような傲慢であり、誘惑である。ジョン・バニアンも自分が「滅びの子」ではないかと疑い苦しんだ。そして、「私に来る者を、決して拒むことはない」という聖句に救われたのである。イエスが十字架に死なれたのは、何の為であろうか。「滅びの子」に代理して、徹底的に神に見捨てられる者となるためであった。そして、それを信じる者を「神の子」として下さる。人間が為し得ることはただ、自分の滅びを担って下さったイエスと、彼を世に遣わされた神の愛、をひたすら信じ、そのような神を愛することだけである。それが「御言葉を守る」ことであり、「御名による」守りの中にいることなのである。
 世を去る前にあらかじめこれらのことを語ったのは、世に残された弟子達が先に語られたことが実現したと知って「喜びに満たされる」為である、と言われた。これは、聖霊付与後にそうなるということであろう。
 そして、弟子達が「悪しき者」=闇の勢力から守られることを祈られた。人間を超えた闇の力というものは存在する。アダムが誘惑されたように、闇の勢力は絶えず人を誘惑する。弟子達を、その力の働く場である世から取り去るのではなく、それに対抗する勢力として世に存在させる為である。

 イエスという「神からの言葉」、それが真理である。神は、創造された世界を放置されはしない。独り子を世に派遣され、イエスという活ける御言葉=真理によって世界を御自分に結びつけられる。「真理」は、弟子達を聖別する。聖別とは、世俗の用から分離して神的用途に取り分けることである。例えば祭司や神殿の器具、犠牲獣など。従って、弟子達=信仰者達の生涯は、神の栄光をあらわす為に聖別されているということである。イエスは、「あなたが私を世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」と言われた。信仰者は、人間全体を代表する一員として、神を愛する為に生きるのである。特別なことをするのではなくとも、聖書が証する真理(イエス・キリスト=救主)を受け入れ、自分の人生を主に捧げつつ生きる。それが聖別された生涯ある。
 イエスは、私達信仰者が神に聖別された者となるように、御自分を神と人の為の存在として聖別し、御自分を十字架に献げて、神の人との仲立ちとなられたのである。
 また、ヨハネ共同体や初期教会だけでなく、彼らの証によってイエスを信じる者達(現在の私達)のためにも祈られた。代々の教会の証によって信仰に入る者達も全て、神がイエスと一つであるように、神と一つになることを祈られた。それによって世も、神の愛を知るようになる。
 最後に、イエスに属する者達がイエスの居るところに共にいるようにして下さいと祈られた。それは、彼らが神の独り子としてのイエスの栄光をみるためである。アーメン、主よ来たりませ。
 主のいますところで、愛する兄弟姉妹と共に、神を讃美する終りの日を待ち望みつつ、与えられた自分の生涯を生き抜いていきたい。