家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

心からの赦し

2019年1月13日

テキスト:マタイ伝18:20~35

讃美歌:534&321

                  第4部 教会におけるイエスの活動(16:21~20:34)
                    B.共同体生活についての演説(18:1~35)
 今年初めての礼拝となる。中断したが再開し、今まで継続できたことを感謝したい。これからも主に信頼し、主を見上げつつ進んでいきたい。
 前回はキリスト者共同体があるべき姿として、自分が神に対し「子供」のように庇護され配慮を受ける者と自覚し、他者も神にとっては愛する「子供」であると認識すること、そして、競い合うのではなく、一つの体のように互いに支え、仕え合うべきであることを学んだ。今回もその続きである。
 2.赦し(18:21~35)
a.無制限の赦し(18:21~22)
 ペテロがイエスに尋ねた。「私に対し罪を犯した兄弟を、何度赦すべきでしょうか。7度までですか?」。7は完全数であり、ほとんど無制限の赦しと解釈できる。ところが、イエスはそれを超える、「77度まで」をお示しになった。つまり、際限なくである。
 ここを自分が実行すべき「律法」と読むなら、絶対無理である。少しばかり馬鹿にされたり軽く見られたりしただけで腹が立ち、なかなか赦せないのに、無制限に自分に対する罪を赦すなんて、人間性には不可能である。また、赦してはならない悪だって存在するではないか。この箇所を読むと、いつも不可能なことを命じられているような気がする。
 だが、これは律法ではなく目標であり、自分の身に実現するよう、祈り求め戦うべき事柄なのである。主は、すでに勝利された。だが、私たち(教会)と共に、世の終わりまで共に戦ってくださっているのだ。イエスは続けて次の譬えを語られた。
b.憐みのない債務者(18:23~35)
 「(エジプトでヨセフが大臣として巨額の国費を任されたように)ある王が僕(奴隷)に巨額の金を任せていた。決算となり、その僕は王に対し1万タラントの負債が返済不能となっていることが分かった。彼の財産一切、及び家族と彼自身を奴隷に売って、返済するよう命じられて、僕は身を投げ出しひれ伏して返済猶予を乞うた(しかし、どう見ても無理である)。だが、驚くべきことに、王は彼を憐れんで巨額の負債を免除してくれたのである。
 ところが、こんなにも大きな憐みを受けた僕が外に出ると、自分にわずか100デナリの負債がある者に出会った。彼は容赦なく返済を迫り、負債が返済できるまで相手を投獄してしまった。これを見て心を痛めた者が王に告げ口をした。王は怒って、この僕に対する免除を取り消し、彼を(身内等に返済を迫る目的で)拷問者に引き渡した」。
 この譬えは、わかりやすい。私達自身、巨額の負債を免除された僕のように、神の怒りと裁きを、驚くべき憐れみによって免除された身である。しかも、いまだ罪の肉にあって赦しを必要としている。その自分が、自分に対するわずかばかりの罪を、より多くを赦された者として赦さないならば、この僕のように神の怒りをかい赦しを取り消されて当然である。
 キリスト者自身の力では、以上のような謙遜と仕え合いや、心から他者を赦すことは不可能である。だが、神の驚くべき憐れみが人間に赦しと義をもたらしてくださった以上、そのことによって人間も互いに仕え合うことができ、また多く赦された者として心から他者を赦すことが可能とされた。果たすべき厳しい命令としてではなく、与えられた恵みの賜物としてこれらの言葉を受け入れ、祈り求めるべきである。