家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

離婚禁止と結婚の断念

2019年1月26日

テキスト:マタイ伝19:1~12

讃美歌:2&488

                  第4部 教会におけるイエスの活動(16:21~20:34)
                    C.エルサレムへの途上で(19:1~20:34)
 弟子集団に彼ら共同体のあるべき姿を語り終えられたイエスは、いよいよガリラヤを発ってユダヤの地に向かわれた。その途上での出来事が語られる。
1.離婚禁止と結婚の断念(19:1~12)
 イエスは弟子集団に語り終えると、ガリラヤを去ってユダヤの地に向かわれた。大勢の群衆が彼に従っていき、イエスはメシアとしての癒しの業を施された。
 その後の、パリサイ人との問答は、私達を複雑な気持ちにさせる箇所であろう。まず、男性側からのみ離婚が可能という前提であること。いくら古代の家父長制度の下にあるといっても、ヘレニズム圏では女性側からの離婚も認められていた。女性側の権利や状況を何ら顧みていないように感じる。
 次に、もっと根本的な疑問として、イエスが答えられたように、「彼ら(夫婦)はもはや二つではなく一つの肉である。神が結びあわせたものを、人が離してはならない」と、離婚をまったく認めないとすれば、あまりに非人間的で、人間の現実にあわないように思える。それは、現在のカトリックの離婚禁止制度の実情をみれば明らかであろう。結婚の維持が困難な場合は、離婚をむしろ認めるのが自然ではないだろうか。だから、パリサイ人らが、律法でも離縁状による離婚を認めていると指摘するのはもっともである。
 ところがイエスは、①それは人間の弱さに対する譲歩である(あるべき姿ではない)、②不品行(姦淫等)でもないのに妻を離縁し、他の女と結婚することは姦淫であると言われた。
 ①の答えからは、イエスの最初の答え(離婚禁止)は原則であり、個別具体的適用は現実の人間的弱さに譲歩し離婚を認められたようにもみえる。だが実際は、②離縁(別居)した相手(妻)が存命中の再婚は姦淫とする、非常に厳しいものである。
 これを実際に適用するのはほとんど不可能である。弟子達が「それでは結婚しない方がましです」といったのは、当然に思える。
 だが、創造の御旨に外れてしまった堕罪後の人間を裁くために、イエスはこれらの言葉を語っておられるのではない。こうした罪と死の支配から救い出すために、彼は世に到来された。結婚制度や親子関係は、死によって終わる肉の生活においてのみ成り立つ。よき伴侶は神の賜物であり、子供が生まれることは祝福の体験であるけれども、この生涯が終わり神の前に立つのは、これらの関係なしの裸の人間としての自分自身である。
 また私達は、自然的な愛がいかに弱く、罪にまみれたものか知っている。人を愛すれば愛するほど、その愛が肉の弱さから解き放たれ、Ⅰコリント15章にあるような愛へと変えられるよう祈らざるを得ない。創世記によれば、アダムの堕罪によって死と生殖の循環が始まった。私達の愛は、弱さと罪につきまとわれている。
 イエスは、罪と死を克服し、人間に神と共なる永遠の命を打ち開くために、神から派遣された救い主である。イエスの復活によって「新しい人間」の創造が始まった。そして、来るべき神の国では、人間は天使のようになり「娶ったり嫁いだりすることはない」。キリストにあって神に結びつき、永続する相互の愛が完成するからである。
 パウロは「今より後、妻のある者はない者のように(独身のように)、喜ぶ者は喜ばない者のようにあれ、…なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」(Ⅰコリント7章)と述べている。永続する御国での交わりを、待ち望むからである。
 パリサイ人は(あるいは私達自身も)、過ぎ去るこの世の有様(堕罪後の肉の生活)を前提として離婚を考え論議しようとする。だが、イエスはその土俵に乗り給わず、神の御業として男女が創造されたことをお示しになったのである。
 生殖継続のために、男女が性的に結びつく結婚は、自然なものである。だが絶対的なものではなく、生まれつきや人為的な理由で性的存在でありえない者(宦官)もいる。そうした自然的独身のほかに、イエスご自身のように「神の国のために」自ら進んで結婚を断念する者も存在する。使徒パウロや洗礼者ヨハネ、また教会初期の放浪の伝道者達もそうであろう。
 「(そのような運命を)受け入れられる者は受け入れなさい」とのイエスの言葉は、結婚の厳しさに尻込みする弟子達とは次元の違う、来たらんとする神の国の視点から語っておられるように思う。
 日々の生活に追われ、限られた満たされない生涯を送る私達であるが、この肉における生活も、神が打ち立ててくださった永遠の御国への希望によって慰めと励ましを与えられ、生き甲斐あるものとされている。このことを覚え、心からの感謝と賛美を神に捧げる者でありたい。