家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

最後の審判

 

2019年10月6日

テキスト:マタイ伝25:31~46

讃美歌::82&331

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                      B.審判についての演説(24:3~25:46)

 前回まで、①終末が近づく徴として外からの患難だけでなく教会の内部でも、愛が冷え・不法がはびこり等の混乱が生じること、また②教会に対し、主の来臨を何もしないで待つのではなく、神の国の備え(奉仕、愛の業、信仰を活用)をして待つべきことが語られてきた。
 今回はその締めくくりとして、最後の審判のありようについてである。
3 世界の審判(25:31~46)
 終わりの日に、人の子(イエスご自身)が栄光のうちに天使達を引き連れておいでになり、審判の座に座られると、全人類(キリスト者もそうでない者も含めた)が集められ、主は人々を右(天国に受け入れられる者)と左(そうでないもの)に分けられる。「羊飼いのように」というのは、食肉として屠殺する分を、群れから分ける作業に似ているからである。
 そして右の者達には「天地創造のはじめから用意されていた」神の国を受け継げという。創造の意図は「神の国」だからである。だが、左側には、(創造に背く)滅亡を告げる。その判定基準は、主が「飢えていた時に食べ物をくれ、渇いていた時に飲ませ、宿無しの時に宿を貸し、裸であった時に着せ、病気や投獄されていた時に見舞ってくれた」かどうかであった。イエスに対し、そんな行いをした(しなかった)覚えのない人々は驚いて、いつそんなことを自分達がした(しなかった)かを尋ねる。すると主は、「これらの私の全く小さな兄弟達」にした(しなかった)ことは、ご自分にした(しなかった)ことであると言われた。
 主がご自分と同定された「私の全く小さな兄弟達」をどう捉えるかで、解釈が決まる。
①困窮者すべてと解釈する立場。
 トルストイの「愛あるところに神あり」(靴屋のマルチン)に取り上げられ、今やこの箇所解釈の常識になっているように、困難な状況にある者すべてと捉える立場である。つまり、信仰の有無にかかわらず、困窮者に慈善をなしたかどうかが、審判の尺度と云うことになる。
 しかし、マタイは今までイエスの兄弟達を「父の意志を行う者達」、すなわちイエスの弟子およびキリスト者として記述してきた。ここだけ突然、信仰と何の関係もなく困窮者すべてと捉えるのは不自然である。また、福音書を今まで読んできた者は、「あなた方を受け入れる者は、私を受け入れ、…私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、…](10:40~42)の箇所を、当然思い起こすのではないだろうか。
キリスト教会内の兄弟達と解釈する立場
 上記した箇所(十二弟子派遣の箇所)からわかるように、ここで表現されている困窮(飢え、渇き、放浪、余分の衣類を持たない「裸」、疲労と病、入牢)が最もよく当てはまるのが、放浪のキリスト教伝道者達(たとえばパウロやペテロ、ピリポなど)である。イエスご自身、職業や家族を離れ、飢えや渇きに悩み、放浪しつつ福音を宣べ伝えられた。最後には投獄どころか、これから語られる十字架の死を遂げようとしておられる。放浪のキリスト教伝道者達は、シナゴーグからだけでなく公の権力からも絶えず迫害を受け、逮捕入牢あるいは命の危険さえ存在していた(実際に公権力によって多くの者が殉教した)。定住者の教会の支援なくば実に困難な状況にあった。艱難に疲弊したマタイ当時の(愛が冷えた)教会は、また「私はアポロに、私は…に」など分派や対立も生じていた。従って、彼らを支え援助することが十分だったとはいえなかった。(パウロの諸教会に当てた手紙を読むと、パウロだけでなくテトスやテモテほかの同伴者達がいかに厳しい状況の中で活動していたかよくわかる)。従って、第一義的には(本来は)「これらの私の全く小さな兄弟達」を、放浪のキリスト教伝道者と受け取るのが正しいのではないだろうか。彼らは主イエスご自身ではない。人間的にも、その宣教においても、主とは比較にならない「全く小さな者達」である。だが、彼らになしたことは、「私」すなわちイエスになしたことなのである。
 時代は変わり、放浪の伝道者は姿を消した。しかし現在においても、宣教に携わる者達(伝道者や牧師や神学者など)は、経済的にも精神的にも困窮のなかにいる。よく「牧師の末路」など言われるように、晩年の牧師の多くが病や貧困に苦しむことを私達は知っている。
 「天路歴程」で、悪魔アポルオンがクリスチャンに「あいつら(信仰者達)の末路は悪いぞ」と云うと、クリスチャンが「それこそ栄光だ!今すぐ(この世で)の救済ではなく、主が栄光のうちに来臨される時に受ける栄光を待っているのだから」と応える場面がある。清教徒への迫害の中で、バニアンは投獄され、盲目の娘を含むその家族は困窮のどん底を味わった。どの時代も、宣教者は困窮に遭遇するのである。彼らの困窮を、躓きや恥としてはならない。彼らに奉仕することは、主に奉仕することなのである。
 このことは、宣教や信仰の故に迫害され労苦している兄弟達(キリスト者)にとって、大きな慰めと喜びであろう。人間的な欠陥や弱さ、過ちや恥を抱えた「土の器」のままに、彼らは世界で主を代表する者・派遣された使者とされたからである。主は、彼らの苦しみをご自分の苦しみとし、彼らと共に働いて下さることを知るからである。
 だからこの箇所は、十字架を目前にしたイエスが、やがて自分に従う者達(キリスト者)を世界に派遣し、彼らが山の上にある町の如く福音の光を輝かせれば、そのために苦難に遭遇することをあらかじめ知っておられて、彼らの苦しみをご自分の苦しみとみなすと間接的に告げているのである。
 そして直接的には、彼ら(義のために苦しむ「小さい兄弟達」)を受け入れ愛の業をなしたがどうかが、最後の審判における尺度となると告げている。だから、キリスト者の信仰は決してその人の救済のためだけではない。それを輝かせ用いることが、異教徒を含めた全世界の救済に奉仕することになるのである。
 しかし、対象を困窮者すべてと考える①の立場も「愛に仕える」解釈である。なぜなら、審判者は福音書が語ってきた「憐れみ深い」イエスなのである。彼は罪人の友と呼ばれ、貧しい者・身体障害者・病人を憐れまれた。そして「すべて労する者、重荷を負う者は、私のものに来なさい」と呼びかけ給う方だからである。弱者や被抑圧者と同苦し、正義と公平と慈しみの支配を求めることは、イスラエル預言者が神のご意志であると語ったことではないか。
 最後の審判は、脅しや恐怖ではなく、忍耐と希望の信仰の徴なのである。現在ただいまの時点で、イエスはこう言われる「あなた方はこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」。勝利者エスは、世の終わりまで信仰者と共に、「貧しい者に福音を」伝えるため困窮しつつ働いておられる。私達は、信仰者や正義の実現を目指す人々と連帯し、仕え、愛の業に努めつつ、主の来たり給うを待とうではないか。