2019年10月20日
テキスト:マタイ伝26:1~16
讃美歌:132&391
第6部 受難とイースター(26:1~28:20)
私達はマタイ伝を、その誕生記事からここまで読み進めてきた。いよいよ、イエスの御受難と復活の記事に入ろうとしている。言うまでもないことだが、福音は会得すべき真理や道徳律・哲学等ではない。人間の関与なく、神ご自身が行動された救済の御業、すなわちイエスが「多くの人の身代金として自分の命を献げ」(20:28)て下さったという事実が、私達の救済と希望の根拠なのである。世界史からみれば、約2000年前のローマ支配下のユダヤで、一人のユダヤ人が十字架刑に処せられに過ぎない。だがそれは、人間を罪と死から解放するエクソダスであり、神の偉大な御業だったのである。
マタイが報告するその出来事と経過を、心に刻みつつ読んでいきたい。
1. 受難の開始(26:1~16)
1.1 死の決定(26:1~5)
イエスは、今までの説教(山上の垂訓、弟子演説その他)の一つ一つを語り終わったように、ではなく「すべて」を語り終えられた。これ以降、弟子達に対し語られるだけで、イスラエル民衆および敵対者対しては沈黙して何も教えようとはされない。
すでにイエスは、何度も弟子達に(ご自分のことである)人の子の苦難について予告してきた(16:21「このときから、…多くの苦しみを受けて殺され…」、17:12、22、23、20:18、19「人の子は、…引き渡される。…」)。ここ受難物語でも、最初に発言されるのはイエスご自身である。それは「引き渡される」のは、敵対勢力に屈服させられたのではなく、神のご意志を成就する主権的行為だということを示している。
同時に読者は、洗礼者ヨハネやイエスご自身が「引き渡され」たように、弟子(キリスト者)も「引き渡され」、苦難の道を歩むべきことを想起する。事実、ペテロもヤコブも殉教した。しかし、十字架の死がその道の終わりではない。イエスは、ご自分が三日目に復活されることを、すでに何度も予告しておられる。受難と死は、復活における勝利の前兆なのである。
イエスは「二日後」すなわち過越祭に、「引き渡される」と予告された。その頃、祭司長や長老達がカヤパの私邸に集まり、イエス殺害の合議を行っていた。大審院の正式決定ではないが、大審院に提案し正式決定する下準備である。しかし巡礼達で賑わう過越の期間中は、イエス捕縛が民衆の騒乱を引きおこす可能性があり、避けるつもりであった。それが、思いがけずユダの手引きによって、人目につかずに逮捕できることになる。彼らの策略は、神の謀(はかりごと)とは違って、成り行き次第なのである。
これに対し、イエスはご自分の死と復活の出来事を統括しておられる。今や彼の時が来た。神が望まれ、イエスが知っていた事柄を成就するため、イエスはみずから苦難の道に入って行かれるのである。
1.2 ベタニアでの塗油(26:6~13)
イエスがベタニア村(エルサレム近く)の癩病人シモン(ルカ伝によれば、パリサイ人であった。ルカ7:36)に到着され、食卓の席に着かれた。すると一人の女が、高価な香油の壺を持って食事中のイエスに近寄り、中身の香油すべてをイエスの頭に注ぎかけた。これは、北インドから輸入された高価な香油で、アラバスターの壺に入れ石膏で封をした物である。その値は、労働者の年収(現在で言えば、三〇〇万から四〇〇万円)に相当した。後に残らない香りに、三〇〇万円を使い果たすということは、これがどんなに極端な贅沢であったかを示している。これを、①すでに所有していたか新規に購入できたこと、そして②他人の宴会に忍び込むというまともでない行動、はその女が何者であるかをある程度示している。彼女の名は伝えられていないが、病を癒やされた者や悪霊を取り除かれたマグダラのマリア等の名は伝えられているのだから、単に女性蔑視からだけではないであろう。おそらく金はあっても人に蔑まれ、シナゴーグや教会からスキャンダルとされる「遊女=娼婦」だったのではないだろうか。遊女の身分と名を伏せて、教会は彼女の恥を覆い、かつその奉仕がイエスに受け入れられ、嘉せられたことを伝えたのである。
彼女はイエスによって、神が取税人や娼婦のような罪人をも顧み給うことを知った。罪の結果である病を癒やし、罪人に近づかれるイエスの言葉と振る舞いが、それを示したのである。彼によって彼女は、神に希望を抱くことができた。思いがけないこの喜びをもたらした方に、彼女はなんとしてでも感謝と崇拝の心を示したかった。だが娼婦との関わりは恥ずべきことと見なされていたから、あえて正面切って礼拝・捧げ物をすることは憚られた。必死の彼女が思いついたのは、他人がイエスを接待している席に忍び込み、名目上はその人のもてなしの一部のようにして、最高の香りを献じることであった。金品では後に残って迷惑をおかけするかも知れないが、香りならその場限りだからその心配もない。そこに彼女の一世一代、精一杯の思いを賭けたのである。
彼女のこの極端な行動に、一同はびっくり仰天した。そしてかくも貴重な香油を使い尽くすという大散財が、弟子達を憤慨させた。換金して(ザアカイのように)施すべきだったと言うのである。(イエス一行も飢えや渇きに苦しんだことを思い出したに違いない)。
これに対しイエスは、彼女の奉仕を、死に赴こうとする自分への葬りの準備として受け入れ、「世界中、この福音が伝えられる所どこででも、彼女のしたことも記念として語り伝えられる」と告げられた。
彼女の行為が、福音が語られる所すべてで記念として語り伝えられる特別な点は何か。イエスへの感激を、一般的な善行へと拡散させず、イエスご自身への愛と献身に集中させた点ではないだろうか。よき業、愛の業のすべては、どんな人間の心底にも存在する孤独な自己が、イエスよって神に受け入れられた感激と喜びから、流れ出る。今、イエスは罪人の贖いために死に赴こうとしておられる。自分を囲む人間達すべてがそれを理解しない孤独の中で、彼女の奉仕は、彼女が意識しないままに、イエスへのあらかじめの「手向け」=香華として受け取られたのであった。そしてそれは、身代わりとなって死なれるイエスへの、罪人からの最初の供物であった。だから彼女の奉仕は、「イエスの死=この福音」が語られるすべての所で、記念として語られるのである。
愛と感激の故に、恥も外聞なく自分の精一杯のものを捧げたこの女は、イエスと信仰者の関係が何であるかを示している。罪人のためにご自分の命を捧げられたイエスを、信仰者もまた恥も外聞もなく自分のすべてを捧げて愛すべきである。彼は、私達のために恥をも厭わず十字架に死なれた。私達もまた、苦難も死も恥も恐れず自分を献げるべきである。神がまず、人間を愛し、ご自分の御子をさえ惜しまれなかったのだから。
この女の奉仕は、イエスによって十二分に解釈され、受け入れられた。名をつたえられないまま、彼女はイエスに感謝する罪人の代表となった。そして彼女の行為の根本にあるのは、イエスの(神の)人間に対する限りない愛と献身なのである。
1.3 ユダの裏切り(26:14~16)
この章の最初で予告されたとおり、事態が動き始めた。ユダが、祭司長たちにイエス引き渡せばいくら貰えるか問い合わせた。金額次第で、イエスを逮捕させるというのである。報酬わずか銀貨三〇枚で、ユダはイエス引き渡しを受けた。そしてその機会を狙っていた。
あの名もないベタニアの女と対称的に、ユダ個人のちょっとした小遣い稼ぎが、神の意図を成就する歯車として動き始めた。