家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

女達への顕現

2020年4月5日

テキスト:マタイ伝27:62~28:15
讃美歌:151&249

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 前回、イエスの死と葬りの箇所を読み、その後、DVDでイエスの審問からキレネのシモンの場面までマタイ受難曲を聴いた。その続きを今日の棕櫚の聖日エルサレム入城記念日)に聴いて礼拝に代える予定であったが、感染症防止で外出自粛とのなったので集まらずに、それぞれの場で祈りと黙想をもって礼拝したい。
 今回の箇所は、イエスの葬りと墓の続き、即ち復活記事である。復活は、もとより世界の法則を超え、人間が把握しえない神の行動である。だが、現にこの世界で、約2千年前のエルサレム郊外という時点において生起した。人間が把握しえず、筆舌に尽くしがたいこの出来事を、マタイはどう伝えているか、注意深く読んで行きたい。
7.イエスの復活とマタイ福音書の二重の結末 
7.1 墓の番人
 イエスの死と葬りの翌日即ち安息日に、イエスの敵である祭司長等とパリサイ派はピラトを訪問し、イエスの墓の見張りを願い出た。三日後に復活するとのイエス予告があるから(しかし、イエスが予告されたのは弟子達だけだった筈だが)、弟子達が遺体を盗み出す虞があると言うのである。結果、ローマ側から兵士を出し、墓に封印までして念入りに見張りすることになった。これは、却って「復活」が人為的でないことの証明となる。
 福音書成立時期に、弟子達がイエスの死体を盗み出し復活を偽装したという言い分があった事は事実であろう。実際、復活は、ラザロのような蘇生ならともかく、通常の理性には受け入れ難い事柄である。現代でも、頭から無視したり、なんとか合理的な解釈を試みたり、実存的考え方に解消したりと根強い抵抗がある。当時も同じである。
 これへの反論、およびイエスを殺害し、福音書執筆時期には教会の迫害者であったサンヘドリンを、虚偽を流布させた存在とする記述の意図がよくわかる。だが、歴史的事実とは思えない。イエス殺害に関与していないパリサイ派が、祭司長等サドカイ派と共同でピラトに願い出るなどありえない。また墓の見張りなら、イエス逮捕に向かった神殿警備隊で間に合うので、ローマ兵派遣の必要はない。番兵等の報告も、ローマ側ではなく祭司長等と(今度はパリサイ派でなく)「長老達」になされており、辻褄が合わない。おそらく、マタイが創作した物語ではないだろうか。
7.2 女達と空虚な墓
 金曜日には墓に向かって坐っていた女達も、土曜日の安息日は家に留まった。翌日曜日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓に向かった。マルコ伝では、墓の蓋の石はすでに転がされており、墓の内部前室に一人の若者(天使?)がいたとなっている。だがマタイでは、女達が到着後に、(神的顕現の徴である)大地震が起き、天使が顕現して石を転がし、その上に坐ったと記述する。天使の姿は稲妻のように輝き非常な畏怖を引きおこした。番兵達は、恐怖で死んだようになった。これはパウロへの顕現や、黙示録の顕現とならぶ、最大限の顕現描写である。ここに至って、女達の涙やアリマタヤのヨセフの望みなき真心などが描写されなかった訳が分かる。復活の出来事は、神の側(異次元)からの衝撃的介入であり、こうした人間的反応は吹き飛ばされ雲散霧消してしまうのである。
 番兵等と違い、女達は天使の「恐れるな!」によって失神を免れ、天使の語りかけを聞くことができた。天使は、女達がここに来た目的を知っていて、封印されていた墓にイエスはおられず、復活されたと告知する。(イエスの復活はそれ以前ということになる。)女達が確認のため墓をのぞき込んだかどうか不明だが、事実、墓は空虚であった。イエスはご自分の復活を弟子達に何度も予告された。そして現実に、空虚な墓が残されている。だが、それだけでは神の奇跡=復活を認識することはできない。それには天使の解き明かしが必要なのである。失神した墓の番兵達(また不信のユダヤ人たち)に、これはなかった。だが、天使の解き明かし(啓示)を受けた者達(信じてキリスト者となる者達)は、畏怖だけでなくそれを上回る大きな喜びが与えられる。この場面には、女達の経験を通して教会自身の経験が描写されているのである。天使は女達に、弟子達への伝言を命じた。①イエスが復活されたこと、②弟子達へのガリラヤでの顕現予告である。
7.3 女達へのイエス顕現
 女達は喜びに満たされつつも、やはり恐ろしくてその場を逃げ去った。弟子達に伝言を伝えよう走って行くと、イエスが彼女らに顕現され、近寄って挨拶された。何という驚きと喜びであろうか!天使の告げたとおり、イエスは復活されたのである。畏怖を引きおこす天的存在としてではなく、彼女らが親しくお仕えしてきた「ナザレのイエス」のままに彼女達に出会われた。この方が、マグダラのマリアを悪霊の支配から救い出し、病人を癒やし、貧しい者を憐れみ、罪人に神の近さを告げ、そして最後に苦難と死を遂げられた。そのすべてを、女達自身が身近に体験・目撃したのであった。メシアと信じ縋ってきたこの方も、死が他の人間と同じく奪い去り、彼女達は取り残されたと嘆いたのであった。ところが今、天使の告げたとおり、死の力を打ち破って復活し、女達に優しく挨拶して下さった。この方こそ、詩篇が「高きにいまして、低きを顧み給う」と讃美するとおり、人となって世に来たり、インマヌエル(神、人と共に)となった「神」である。今更ながら、イエス顕現によってこれを深く感得した女達は、地にひれ伏し、御足にすがりついて礼拝した。お告げを受けた占星術師らが、癒やされた病人が、嵐に遭った弟子達が、すでに礼拝してきたとおりである。
 イエスは彼女らに、天使が託した伝言を直接繰り返される。だが、何という慈愛と力であろうか。イエスは、自分を見捨てて逃げ去った弟子達を「兄弟達」と呼ぶ。天使がすでに彼らを「弟子達」と呼び、彼らがどうであろうとイエスは彼らを弟子として見捨てなかったことを示した。しかしイエス御自身は、それ以上に彼らを「兄弟達」と呼び、ご自分と共同の相続人(ロマ8:16・17)と認めて下さるのである。
 後で取り上げるが、ガリラヤでの顕現は弟子達に宣教命令を与える為である。だが女達への顕現は、その前提として次の二点を示しているように思う。
 ①「世界の主」であり神的力によって復活された方は、「ナザレのイエス」である。この方は、貧しい姿で地上を歩まれ、病人や罪人を憐れみ、「他人を救ったが自分を」救おうとせず神に委ねられた。そして、ご自分の者達を愛し決して見捨てられない。
 ②女達の経験は、教会(キリスト者)の経験である。主がまず私達一人一人を愛し、(私達がどうあろうとも)見捨てず、人生の様々の場面で具体的に私達を救い癒やして下さった。それを悟る時、私達は彼を主と仰ぎ、礼拝し、自分を主のものと告白するのである。
7.4 不信から虚偽へ
 一方、墓の番兵等は空虚な墓と天使顕現の顛末を祭司長等に報告した。祭司長等は彼らに金を渡し、番兵らが「眠っている間に」イエスの亡骸が盗まれたという虚偽を言いふらすよう指示した。眠った職務怠慢を咎められないよう手配するからと言うのである。イエスを「人を惑わす者」と言った彼ら自身が、「人を惑わす者」となったのである。だが上記したように、これは史実ではないであろう。
 しかし、神の恵みの啓示なくして、誰が復活を正しく認識し、イエスを主と仰ぐことができるだろうか。私達は助けを祈り求めつつ、聖書の証言を誠実に読んでいかねばならない。