家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

使徒達への顕現と、世界宣教命令

2020年4月19日

テキスト:マタイ伝28:16~28:20

讃美歌:234A&502

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 2017年1月から続けてきた私達のマタイ伝の学びもいよいよ最終回となった。その間、相澤が天に召され一時中断したが、専門知識も訓練もない私達がとにかくマタイ伝を最後まで学び礼拝を継続できた。「二人または三人が…」とあるとおりに主が臨在し守って下さったからであり、多くの方々からの祈りと援助があったからである。身を以て体験したこの恵みに感謝し、これからも主の導きのままに歩んでいきたい。
 感染症拡大防止で外出自粛となったが、それぞれの場で祈り一つ心で礼拝しよう。
 今回の箇所は、過去の弟子達への顕現記事ではない。現在の私達への主のご命令であり、マタイ伝の総括とも言うべき箇所である。今まで学んできた箇所を想起しつつ読みたい。
7.イエスの復活とマタイ福音書の二重の結末 
7.5 世界の主の、すべての民族への宣教命令
 女達の伝言どおり、ユダを除く十一弟子はガリラヤに移動した(それまではエルサレムかその周辺に留まっていたということになる)。そして山に上った。「ガリラヤ」と「山」は、今まで読んできた多くのことを思い出させる。
 「ガリラヤ」はイエスが活動を開始され、活動の中心とされた地方である。弟子達もそこの出身者であった(4章)。ガリラヤにおいて弟子共同体、即ちイエスの教会が生まれた(16章)。また、そこは幼児イエスユダヤ支配者アルケラオから守るため、両親が引きこもった地方であり、そのナザレに住んだのであった。また、洗礼者ヨハネ捕縛を聞いたイエスが退かれた(4:12)場所である。つまり、イスラエルの王が迫害者から避難された場所である。イザヤの成就預言では「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、福音宣教の方向を暗示している。
 「山」は、サタンが世界支配を申し出てイエスを誘惑しようとした場所であり(4:8・9)、またイエスは「山」で座につき説教(5~7章)された。弟子達がイエスの変貌(17章)を体験したのも「山」であった。
 山に登った弟子達に、イエスが顕現された(見られた)。弟子達はひれ伏して礼拝した。私達が驚くのは、次の「しかし、疑う者もいた」の記述である。この記述の意味は何か。弟子の筆頭ペテロは、イエスの命令で水上歩行しイエスに向かって進んだ。ところが風と波を見て恐ろしくなり、溺れかけてイエスに叫ぶと、イエスが手を差し伸べて捕らえ、「信仰の薄い者よ、…」と言われた(14章22~33)。使徒ペテロですら、疑ったのである。疑いに悩まない信仰者がいるだろうか。誰もが自分の疑いや不信に苦しみ、イエスに叫び求めるのである。何故この場面で、弟子達に「疑う者もいた」ことを特記するのか。
 だがイエスは、彼らの疑いを14章でのように問題にされない。ただ近寄って言われた「私は天と地の一切の権能を授かっている」。かつて悪魔が申し出た以上の権能を、イエスは神から受けておられる。復活以前にすでに彼は「罪を赦す」神の権威と力を持っておられた。また、派遣する弟子達にご自分の力を与えられた。だが復活は、神がイエスの全権掌握を公に明らかにされたことである。復活者・勝利者であるイエスは、今や肉におられた時以上の力を弟子達に与え、弟子達を派遣される。弟子達が疑いにつきまとわれようとも、信仰の種は彼ら(弟子達・キリスト者・教会という畑)に蒔かれたのである。たとえ芥子だねほどの小信仰といえども、神の国の種である。それを蒔くために、主は生命を捨て給うた。それは「土からなり土に還る」この身に蒔かれた、生命の種である。信仰はかくも貴重な神の国の種であるから、まだ福音を聴かない世界・世代に宣べ伝え、芽を出させ、伸び広がらせ、成長させねばならない。
 主は弟子達を用いてそれを行わせ給う。だが、それを為し遂げるのは、主の力である。主がペテロに命じられると、彼は水の上を歩いた。ペトロに水上歩行能力がない事は明らかである。彼が為し得たのは、主の命令(言葉)の力である。「神が光あれと言われると、光があった」とあるように、主(神)の言葉は力なのである。「天より雨くだり、雪落ちてまたかえらず、…かくわが口よりいずる言葉も空しくは我に帰らず」とイザヤ55章にある。要するに、主は御言葉の力によって彼ら(弟子・キリスト者)を用い、神の国を来たらせ給う。肉の目には毒麦が生い茂ると見えるこの世に、神の国は存在し力強く成長しているのである。
 主は、ご自分の者達(弟子・キリスト者)を愛し、彼らと連帯される。派遣する弟子達を「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」(25:40)と呼び、彼らをどう扱ったかを諸国民を裁く基準とすると言われた。だから宣教の業は、相手に天国を開きまた閉じる「鍵」である。「疑う者もいた」弟子達の代表者ペテロに与えられた権能とは、宣教・伝道の権能である。
 具体的には、次のように言われた「あなた方は行って、すべての民を私の弟子としなさい」。信仰と共に疑いも抱く小信仰の弟子達であろうとも、主は彼らを用いてご自分の群れを集め養い給う。「すべての民」とは、もはや選民イスラエルだけではなく、それを含むすべての民族を意味する。福音書が書かれた状況下では、宣教の方向は異民族へと向かうであろう。ユダヤ人マタイは、イスラエルに約束された王者にして牧者なる方に、まず異民族から始まってイスラエルを含む全世界がひれ伏すようになると考えるのである。
 この宣教命令は、西欧の帝国主義的侵略に利用され、宣教師が侵略の手先となったこともあった。だが、イエスの支配とは何であったか。病人や罪人、貧しい者を「深く憐れみ」、「他人を救ったが自分を救おうと」しなかった方の支配は、ローマや熱心党の考える支配とは異なる。「そうであってはならない」(20:26)。主が、他者に仕え、僕となり、生命を捧げた(20:25~28)ように、他者に仕え、連帯し、罪と死と貧困から解放する支配である。他の民族や宗教に対し傲慢ではなく、良い業によって奉仕するのである。
 弟子達は自分に留まってならず、各自出て行かねばならない。イエスが世に来て下さったように、彼らも、それぞれ他者に向かって出て行くのである。
 洗礼を授けるのは、イエス御自身が「すべての正しいことを行うため」ヨハネから洗礼を受けられたように、キリスト者も「すべての正しいこと」を聞いて行う者となるためであり、同時に、主の体である教会・エクレシアに対し、自分もその一員であると告白することである。キリスト者は互いに尊重し愛し合い、全体が一つの体となって、イエスに仕える。
 教会は宣教し、洗礼を授けるだけではない。イエスが言葉と振る舞いによって教えたことを為すよう教えなければならない。教えるとは、イエスの手本を示し、自分も他者もそれに倣うことである。何度も何度も、ペテロは失敗し、そのたびにイエスに支えられ立ち帰った。イエスを指し示し、イエスとその言葉に立ち帰ることである。
 それは教会内部だけではない。世に対してもである。教会はその良い行為によって「山上にある町」や、「升におかれた灯火」のように、主の御意志を世に知らしめねばならない。教会外の悪に対し、黙してはならない。ドイツ告白教会は、ユダヤ人迫害に対し真っ先にこれに反対しなかったと懺悔した。主は、教会のみならず全世界の支配者である。
 「しかしこれは理想だ、とても無理」と思うのは、主とその御言葉から目をそらし、自分や世界を見るからである。「御心が行われますように、地の上にも。」(6:10)と言って、お従いしようではないか。主は力強く(継続の現在完了形で)宣言された。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいるのである」。アーメン、主よ私達と共にいて下さい。