家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

奇跡のパンを求める群衆との対話

2020年11月15日

テキスト:ヨハネ伝6:22~40

讃美歌:348&506

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
   前回は、ガリラヤ湖東岸、人里離れた場所での5千人の供食の奇跡、及びカペナウムに戻ろうと漕ぎ出した弟子達への湖上での顕現の奇跡を取り上げた。今回は、その翌日、イエスを探してカペナウムにきた群衆(そのリーダー達)とイエスとの対話である。
(4)生命のパン
②パンを求める群衆とイエス(6:22~40)
a.人の子が与える食物
   ガリラヤ湖東岸で5千人を養われた後、イエスは一人で山に退かれ、戻ってこられなかった。小舟は一艘しかなく、暗くなってから弟子達だけが(イエスなしで)それに乗って帰ったのを群衆は見ていた。彼らは供食のあった場所でそのままイエスが戻られるのを待ち受けていた。明くる日、数隻の小舟がティベリアス(ガリラヤ湖西岸、カペナウムより十数キロ南)からそこに近づいてきた。おそらく、イエスを追って遅れてやって来たのだろう。先に、イエスを王としようとした事から分かるように、ローマからの独立を求めて決起しようという動きがあり(事実、そうしてユダヤ人は国家を失った)、カリスマ的指導者としてイエスを迎えようとしたのである。
 だが、イエスも弟子達もいないと分かると、その小舟に供食を受けた群衆(5千人も乗れるわけがないから、そのリーダー格の者達と考えられる)も分乗して、イエスを探しにカペナウムにやって来た。イエスに出会うと、(湖上歩行の奇跡を知らないから驚いて)いつここに来られたのか?と、言った。
 イエスは、それに直接答えられず、彼らがイエスを求める「動機」について荘重なアーメン言葉でお答えになった。26節「アーメン、アーメン、あなた方に言う。あなた方が私を探しているのは徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。27節「朽ちる食べ物ではなく、いつまでもなくならないで永遠の命に至らせる食べ物のために励みなさい。それは人の子があなた方に与える食べ物である。父である神が人の子を認められたからである」。(26節のアーメン言葉は27節の言葉にかかっている)。
 つまり、群衆が供食の奇跡を信仰への「徴」として見ないで、単に奇跡的な食糧供給として受けとったことを批判され(26節)、肉体的な生命を保たせるような物質的食物(イエスを王として政権樹立を目指すような現世的要求も含むだろう)のために励むのではなく、いつまでも保ち永遠の命に至らせる食物(救済を得させるもの)のために励みなさい、と言われたのである。それこそが「人の子=イエス」が本来的に与える食物であり、父なる神が自分(人の子・イエス)にそれをお認めになった、と宣言された。地上のイエスは、ご自分を終末時救済者・審判者である「人の子」とハッキリと称された。食物が身体を形成し活力を与えるように、イエスの贖罪死と復活が、信仰者の罪を清め永遠の生命に生きる力と身体を形成する。それを神が認証されたのである。
 ところが、群衆もさすがはユダヤ人であった。「永遠の生命に至らせる」と聞いて、直ちに「義とされる行い=神の求める業」を想起したのである。そこで早速、「神の業(複数)を為すために、(まず)何を為すべきでしょうか」と尋ねた。
 イエスは答えて言われた。29節「神が遣わされた者(イエス)を信じる事、これが神の業(単数)である」。イエスを、「人間を救済するために神が遣わされた方」と信じ受け入れること、それだけが神が求め給う人間の為すべき業である。
b.天からのパン
 そこで群衆は、モーセがマナを降らせたように、イエスを信じる根拠になる徴を求めた。終末時メシアなら、それ以上の不思議な奇跡を行ってくれるだろうと期待したのである。
 イエスはまず、マナを降らせたのはモーセではなく神であると指摘し、荘重なアーメン言葉で「私の父が天から本物のパンをあなた達に与えて下さるのである。天から降ってきて、世に生命を与えるもの(物・者)が神のパンである」と言われた。つまり、神は、「徴=実体の予型・模型」ではなく「実物の」神のパンをお与え下さる。(本物の)神のパンとは、天から降ってきて世に生命を与えるものである、と言われた。
 イエスが「天から降ってきて世に生命を与えるもの」としてご自分を指しておられるのに、群衆はまたもや物質的な「魔法のパン」と誤解して、「主よ、それを私達にいつも与えてください」と云った。「主よ」と云っても、ラビへの敬称であり自分の救主という意味ではない。そこでイエスは今度はあからさまに神顕現の言葉(エゴー・エイミー)で「私が生命のパンである」と宣言され、「私の元に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と言われた。
c.終末時の復活
  イエスは続けて、5千人の供食の奇跡という徴を見ても、なおイエスを信じようとしない群衆を嘆かれた。そして、「父が私に与えて下さる人は皆、私の元にくるであろう。そして私の元に来る者を私は決して追い出さない(拒まない」と言われた。ここは前半は「神の選び」について語り、予定説(神による選別)を想起させる。しかし、神の選びとは拒み捨てること(拒絶)ではない。ジョン・バニアンの「恩寵溢るる」には、彼がどうしても克服できない罪に絶望し、自分は救いに選ばれていないと思いかけた時、このアンダーラインしたイエスの言葉「私に来る者を私は決して拒まない」が突然、胸に響いたと語っている。神は資格なき罪人を受け入れ給う。そうではなく、「イエスに来る」という望みを起こさせ、信仰を与えることが、神の選びである。
  そして「追い出さない(拒まない)」理由が38節である。イエスが世に降ってきたのは、自分の意志を行うためでなく、父なる神の意志を行うためだからである。その父なる神の意志とは39節「私に与えて下さった人を一人も失わないで、終りの日に復活させることである」。
  ヨハネ伝は、現在的終末論というか「今、すでに」救済に与っていることを強調する。しかしそれは、終末時に完成するものなのである。天に成就した救いが地上に到来する「終りの日」を、忍耐して待ち望むのが信仰である。信仰的に陶酔することが救済ではない。
  イエスは40節「私の父の意志は、子を見て信じる者が皆、永遠の生命を持ち、私(イエス)がその人を終りの日に復活させることである」と言われた。イエスを信じる者は、①肉における生死に関わらず、既に永遠の生命を持つ。②そして終りの日に、死者は復活の身体(霊の身体)に復活し、生者は同じく復活の身体(霊の身体)に変容する。信仰者の現在は、この①「既に」と②「未だ」の間にある中間時なのである。③そして、復活させる主体は、イエスである。
 ここで、「父が私に与えて下さる人=私に与えて下さった人」とは、「子を見て信じる者」「私に来る者」とされていることに留意したい。これは、後の段落で「父が引き寄せた者」と表現されているが、信仰が本質的には人間の業ではなく、神に由来することを示している。
まとめ
  有り体にいって、私達自身は「永遠の生命」や「復活の身体」が欲しいのだろうか?苦しみにあえば救いを求めるし、病や死も恐ろしい。だが、ファウスト第三部で悪魔メフィストフェレスが言う「最初から生まれてこなければ、悩むこともなかったのさ!」ではないが、自分一箇に限れば永遠に生きる価値はないと思うのが本音ではないだろうか。では何故、こんなにも永遠の生命や復活を憧れ求めるのだろう。
 それは、創造者である神が、決して「世=人間と世界」を見捨てず愛し給うたからである。
 かつて神は、偶像崇拝に溺れるイスラエルに「エフライムよ、どうしてあなたを捨てることができようか。イスラエルよどうしてあなたを渡すことができようか。…私の心は、私のうちに変わり、私の憐れみは、ことごとく燃え起こっている」(ホセア11:8)と語られた。しかし、肉の本性はこの神の愛に耐えられない。猛火が木材に近づくと、焦げ、燃焼し、焼失してしまうように、人間性も神に接すると、かえって弱さと罪によって滅びてしまう。神的愛に応え得るのは神のみである。
 そしてついに「この終りの時に、御子によって」、神はご自分を人間にお与えになった。御子が肉(魂と身体)をとって人間となり、その朽ちるべき弱い肉においてなお、死に至るまで神への従順を貫かれたのである。肉におけるイエスの死が、人間の「肉における罪、神への背き」を焼き滅ぼし取り除いた。
 純金が炉で不純物を取り除かれ、精錬されるように、イエスはその肉の弱さと死によって肉にある「人間の弱さと罪」を取り除き、ご自分の神への従順にふさわしい栄光の身体へと復活された。パウロの言う、「新しいアダム」である。そして神に愛され神を愛する「子なる神」でありつつ、同時に身体を備えた真の人間として、天に昇られ、神と人が共にいる場を開かれた。
 古いアダムと違ってイエスは、ご自分の受難と死によって人間の栄光の体を勝ち取られた。だから終りの日に、イエスがご自分に属する者達(子を見て信じる者、私に来る者)を、「わが骨の骨、肉の肉」=ご自分と一体の者として復活させる主体となり給うのである。イエスの復活のお身体・生命は、人間の為の「神と偕なる永遠の命」である。
 神は御子イエスにおいて、これほどの愛を示して下さった。私達はただ、「御心が地にも行われますように」と祈りつつ、イエスを信じ受け入れ、自分の生も死も彼に委ね信頼すべきである。それが私達が為すべき唯一の「神の業」である。