家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「良い羊飼い」イエス-2

2021年4月4日

テキスト:ヨハネ伝10:17~21

讃美歌:151&320

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
 前回は、「羊の囲い」の謎とその解き明かしを学んだ。まず、①イエスは「羊の門」、つまり神と人との唯一の仲介者であるという事。イエスの出来事(十字架と復活)抜きで、或いはそれに並んで、理念や哲学的真理(律法やナチスの「指導者原理」等)で人に働きかける指導者達は、民を滅亡に導く強盗・偽指導者だと言うことである。この例として、バルメン宣言第一項を取り上げた。
 次に②イエスは、羊の為に(狼と戦って)生命を捨てる「良い羊飼い」(11節)だということ。つまり、イエスの死は、神に背くご自分の民(イスラエル)を、死と滅びから救い出す為であった、という事である(この告白が為されるのは復活後であるが、地上のイエスの言葉としては未来形)。
 そして、イエスが主・羊飼いであるのは、イスラエルユダヤ人・キリスト者など)に対してだけではないとして挿入されたのが16節である。③「この囲い」外の羊、つまりまだ神を知らない「世」に対しても、イエスは彼らの為に生命を捨てた「良い羊飼い」であり、世界全体を「正義と公平と慈しみ」をもって統治する「主」である。ガンジーや、戦後のドイツ告白教会の懺悔を例として取り上げた。この点は、第二次世界大戦の反省によって、新しく深められた点であろう。
 しかし16節が語っていることはそれに尽きるものではない。主は、その民を「囲い」、つまりその人が属していた組織や場所から、出て行くよう呼びかけられる。アブラハムは故郷ウルから、ヤコブは父イサクの天幕から、あの元盲人はシナゴーグ共同体から、ルターは修道院から出て、一人とならねばならなかった。主に従う者は、それぞれが独立した人間として、一人で主に応答していかねばならない。それは、直接主に結びつく者同士が「一つの群れ」となり、「一人の羊飼い」に導かれるためである。
 今回は、前回の説話の続きである。
 (7)良い羊飼い(10:1~42)
b.謎の解き明かし(10:7~18)-2
 さて、16節は編集によって挿入されたと考えられているから、17節「私は生命を再び受ける為に捨てる。それ故、父は私を愛して下さる」は、15節「わたしは羊のために生命を捨てる」に直接つながり、上記②の「羊の為に生命を捨てる良い羊飼い」イエスの死と復活を解き明かすものである。
 17節前半をそのまま読むと、イエスの死は、「霊の身体」に復活する目的の為だったということになるが、それでは後半のイエスが父(神)に愛される理由がよく分からない。また、なぜ死を経る必要があるのか。死は罪の報いであるなら、イエスは弱い肉においても罪を知らない、父と堅く一致した御方だったのだから、死を経ることなく、神の霊による生命を与えられ「栄光の身体」で、エノクのように直接天に昇る事ができたではないか。
 しかし、最初のアダムの子孫である生まれながらの人間は、先天的に罪に支配されている。パウロが嘆いたように「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」(ロマ7:18)。神的審判者「人の子」であり、闇を照らす光であるイエスの前に、全ての人が闇にとらわれた罪人であることが明らかになる。だから、全ての人は「自分の罪によって死ぬ」べき運命にある。
 イエスは、このような人間に連帯されて、可死的で弱い「罪の肉の様」でお生まれになった。神は、彼が贖罪にふさわしい「傷のない羔羊」として、その民に代理して死ぬ事を望まれた。神的審判者「人の子」イエス御自身が、その裁きの結果である刑罰としての死を、その民に代理して受けること、これが父の御意志であった。御子イエスはそれに同意された。
 だから、イエスの死はご自分のためでなく、その民の為の死であった。
 しかし、死は、全くの神からの棄却であり、滅びである。その恐しさを真に味わうのは神とその御子イエスだけである。ゲッセマネで彼は恐怖されて、他の途があるならこの杯を取り除いて下さいと祈られた。神はお応えにならず無言の御意志を示された。イエスは父のその意志を受け入れ、あえて進んでそれをご自分の意志とされた。主の祈りの、「御心をならせ給え」には、これほどの従順がこめられている。共観福音書はイエスの死を「渡される」と受身形で表現したが、ヨハネ伝は、イエスが進んで父の意志に一致された「従順」を強調するために「私は(自分の)生命を(進んで)捨てる」と表現した。パウロ以前の古いキリスト賛歌は(イエスは)「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、…」(ピリピ2:8~9)と述べ、神(父)がイエスを愛するのは、この従順の故であるとしている。
 8章51節に「(イエスの言葉を守るなら、その人は決して死を見ない」とある。それは、イエスがその民に代わって死なれた結果、イエスを信じる者の死は「神からの棄却=滅亡」ではなく、その人が働くべき時間が経過し終わったという、祝福された「日満ちて」の死となったからである。黙示録で「今より後、主にありて死ぬ死人は幸いである」との声に、御霊が応え「しかり、彼らは労苦をとかれて、安らぎを得る」とある。このように、主ある死者達は、今、安息にいる。
 イエスの復活もまたご自分の為でなく、その民の為であった。イエスの死によって、人間は肉に死んだとされた以上、人間が生きる為には、肉の生命ではない別の命が必要である。だから、肉に死んだイエスのお身体は、神の霊による生命を与えられ、罪に支配されず死ぬことのない「霊の身体」に変化し、復活された。この「霊の身体」で生きておられるのは、今はまだイエスお一人だけである。だが、現在肉の身体で生きている人間も、復活のイエスの生命である御霊を与えられ、「御霊」によって生きる事が可能となった。シロアムの池で開眼したあの元盲人のように、イエスを慕い「信じたいのです」と願う心、それが人間に与えられる御霊の働きの始めである。私達にも与えられたこの御霊によって、肉の身体が滅びても私達は滅びない。主が栄光のうちに再臨される日に、愛する兄弟姉妹と共に「霊の身体」で復活し、主にまみえる。それを私達は待ち望んでいる。
 だから、復活のイエスの御霊が、その民を導く。羊飼いは野獣(罪と死)に殺されたのではなく、それを撃退し、群れに戻り、良い羊飼いとして「世の終わりまで」私達と共にいて下さる。
 イエスの死と復活「生命を再び受ける為に捨てる」は、ひとえに父と一致した「人間への愛」の為であり、羊を守り抜く為であった。「それ故、父は私(イエス)を愛して下さる」のである。
 18節「誰も私から生命を奪い取る事はできない」以下は、敵対者や悪魔によって、イエスが生命を奪われたのではなく、イエス御自身が人間への愛の故に進んでお捨てになった事を言う。イエスは、自分の民(羊)の主人として彼らに代理し、進んで生命を捨てる権利と能力(権能)を持ち、また、彼らが永遠の生命を受ける為に、「霊の身体」に復活する権能をも持ち給う。良い羊飼いは、ご自分の民を「牧者のいない羊」(民数記27:17)のように放置されはしない。
 これが、世の支配者・主として、イエスが父(神)から受けた命令である、とイエスは語られた。
 今日は、イースターである。荒野を旅したイスラエルのように、私達の歩みがたとえおぼつかなくとも、主は叱ったり懲らしめたりしつつ終りまで導いて下さる。感謝ではないか、これから迎える老いも死も、主の元での安らぎの門であり、そこで、主が備えてくださった「約束の地=神と人とが偕に住む世界」の到来を待つのである。私達は、この希望を今一度しっかりと見上げ、感謝しつつ、慰められつつ、まだ続くこの世の旅路を歩んでいきたい。
 c.先天的盲人の開眼事件の締めくくり(10:19~21)
 以上の、パリサイ人達に語られた話を聞いて、(元盲人を会堂追放した)ユダヤ人達の間にまた対立が生じた。大多数はイエスは「悪霊に取り憑かれ、気が変なのだ」といった。だが、少数ながら「悪霊に取り憑かれた者は、このようなことは言えない。悪霊が先天的盲人を開眼させられようか」と言う慎重派もやはり存在し、ユダヤ人全体としてはイエスに対する不安と混乱に陥ったのであった。
 「良い羊飼い」の説話は、次の「神殿奉献祭」の出来事に続くが、今日はここまでにしたい。