家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

五千人の供食とイエスの湖上歩行の奇跡

2020年11月1日

テキスト:ヨハネ伝6:1~21

讃美歌:332&354

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
   前回まで、イエスエルサレムにいらしてベテスダの池の病人を癒やされた。場面は変わって、6章はガリラヤでの二つの奇跡が語られ、次いで生命のパンについてのイエスの説教が続く。
(4)生命のパン
①五千人の供食とイエスの湖上歩行の奇跡(6:1~21)
a.五千人の供食(6:1~15)
 1節に、「このようなことの後に」とあるには、錯簡の仮説に従えば4章のカナでの王の近臣の子供の癒しであると考えられる。また、章の順序に従えば、エルサレムでのベデスダの池での癒やしと言う事になる。どちらにしろ、イエスの癒やし奇跡の評判が高まり、メシアを期待する群衆がガリラヤに集まって来た。それを避けるためイエスガリラヤ湖の対岸(東岸)に渡られ、弟子達と共に山に座した。山上の垂訓を想起させる場面である。過越祭が近い時期のことであった。
 奇跡が起きた場所については、マルコ伝ではガリラヤ湖西岸の「人里離れた場所」で供食の奇跡が為され、その後東北岸ベトサイダに渡る際に湖上歩行の奇跡が起きたとしている。各福音書の記載は少し齟齬がある。しかし何れにしても、イエスが群衆を避け人里離れた場所に立ち去られたことはおなじである。しかし、群衆はイエスを追っていった。
 人里離れた場所までイエスを追ってこれたのは、癒やしを求める病人や女・子供ではない。体力ある壮健な男達である。マルコ6:49などに「百人・五十人ごとに組んで」坐ったとある。つまり軍隊のように組織的に動く者達である。イエスにユダ・マカベアのような蜂起を期待したのである。
 イエスは(山から下りて)自分を待つ群衆をご覧になった。そしてピリポ(地元ベトサイダ出身)に「彼らのために、どこからパンを買ってくれば良いだろうか」とお尋ねになった。ピリポは「少しずつ与えるとしても、200デナリ(約200万円)分のパンでも足りないでしょう」と答えた。アンデレが「大麦のパン5個と肴2匹を持参した若者がいます。だが、これほどの群衆にそれが何になるでしょう」と言った。若者とは、山までイエスに従って行った弟子達のひとりであり、人里離れた場所での自分の弁当を、少し多めに持ってきていたのである。なお、「肴」とは生魚ではなく、干鱈のように味付けた乾物でパンに挟んで食べるものである。
 イエスは群衆を草(過越祭は春であるから草が茂っていた)の上に坐らせ、11節「パンをとり、感謝を捧げ、魚も同じようにして、横になっている人々に欲しいだけ分け与えられた」。これは、明らかに聖餐を想起させる。野外に腰を下ろすではなく、正式な食事の姿勢「横たわる」になっている。だが、共観福音書の平行記事と違って「パン裂き」がない。また、「弟子達に配らせる」のではなく、イエスが手ずから配られている。
 不思議なことにそんな僅かなパンと肴で、群衆全員が飽きるほど食べることができたのである。そして皆が満腹したとき、「何も無駄にならないよう、パンの残りを集めなさい」と言われた。裂いて余ったパンの残りは十二(イスラエルの部族の数)の籠に一杯になった。人々はこの奇跡をみて「まさにこの人(イエス)こそ、世に来たるべき『あの預言者』だ」と言った。洗礼者ヨハネの審問で学んだように、終末時にモーセの如き預言者が現れるとの預言があった。僅かな食料で大勢を満腹させるこの奇跡から、群衆はモーセが荒野でマナを降らせた故事を連想し、イエスモーセの如き『あの預言者』と確信した。そしてイエスを王として押し立て、決起しようとした。
 イエスは群衆が自分を王とするために連れ去ろうしていることを知り、一人で再び山に退かれた。
b.湖上歩行の奇跡(6:16~21)
 夕方になり暗くなってきたが、イエスは戻ってこられなかった。仕方なく、弟子達は住居のあるカペナウムに戻ろうと、自分達だけで船に乗った。ところが風が強くなり、湖が荒れてきた。船は波に翻弄され、漕ぎ進むのが困難であった。それでも25~30スタディオン(約4.5~5km)沖にでた頃、湖上を歩いて船に近づいてくる人影があった。それを見て、弟子達は、恐怖に陥った。ところがそれはイエスであり、神顕現の厳かな言葉『エゴー・エイミ』(=I AM「わたしである」)と声をかけられた。弟子たちがイエスを船に迎え入れようとすると、船は目的地に着いていた。
まとめ
 今回取り上げる二つの奇跡は何を意味しているのだろうか。私達が既に学んだように、聖書の奇跡は「徴」として取り上げられている。そうでなかったら、イエスが当時の病人を癒やされたり、五千人に食を与えたことは、現在の私達に何の関係もない。そうではなくその徴(奇跡)を通して、イエスが人間に生命と健康を与え、養い給う方であることを、私達が「信じる」ためである。その意味でに、この二つの奇跡が私達に何を語っているか考えてみよう。
 a.「五千人の供食」は、①イエスがすべての人に欲しいだけ充分に「糧」を与え養って下さる方であることを示している。序文で、「すべての人を照らす光」と語られているように、イエスは、誰をも選別することなく、各人の欲しいだけ充分な「糧」を差し出される。しかし、どのように受けるかは、受けとる側の問題であり、そこに神の選びが働くことになる。
 群衆は、「パンと肴」を受けた。だが、それを信仰に至る「徴」として受けたのではなく、現世的な物質として受けた。ちょうどスカルでサマリアの女が「生命の水」を物質的水と誤解したと同様に、パンを永遠的な生命に至る糧の「徴」としてでなく、軍隊に供給される兵糧のように受けた。つまりこの奇跡の目的を、自分達の蜂起を支えるという現世的・物質的にのみ受けとったのである。

 ②一方、それは贅沢な御馳走ではなく、「旅の糧食」である。この世の旅路を歩みきるに充分であるが、神の国の祝宴用ではない。ちょうど、聖餐式が「主の再び来る日まで」キリスト者を力付けるためであると同じである。それも、弟子達の一人が持っていた僅かな食料が活用された。
 ③次に、12の籠に一杯になったパン屑は何を意味しているのだろう。「パン屑」といえば、ツロ・フェニキアの女が「子犬でさえ、子供達の食卓から落ちたパン屑を受けます」と言った事が思い出される。弟子の手持ちの僅かなパン(福音)は、選民イスラエル(子供達)を養い、その余剰分は異邦人にまで及び、より大きな新しいイスラエルを養うに足るものであることを思わせる。
 b.湖上歩行の奇跡は、何を意味しているのだろう。イエスの教えを受けた弟子達は、パンの奇跡を、群衆とは違って信仰的な「徴」と受けとったであろう。「嵐に悩む船」は、この世を旅する教会のイメージがある。この世において、教会は地上のイエスなしに、イエスとの再会を目指して、進んでいかねばならない。弟子達も(先に戻られたであろう)イエスの元に向かって、暗い湖に漕ぎ出した。湖は荒れ、弟子達(教会)は艱難に遭遇し前進に困難を覚えている。そこに、不思議な恐ろしい出現があった。これは、苦難のお姿のイエス、主の十字架の影と考えられる。弟子達は恐怖に陥る。だが、イエスの御声で主の顕現であると悟る。弟子達が、主を迎え入れようとすると、船(教会)は目的地(安息の港)に着いていた。
 これら二つの奇跡は、一見して全く別々で何の繋がりももないように見える。しかし、共通して浮かび上がるイメージは、良き羊飼いがその群れを「緑の牧場」に導く道程=「この世の旅路」である。神の国に向かうこの世の旅路において、イエスは信仰者が持っている僅かなものを活用して、人々を充分に養い給う。だが不信仰は、これを現世的・物質的にしか受けとらない。
 しかし、信仰者も危機に陥る。彼らは、イエス不在のまま自分達だけで行動せねばならない。この世の嘲り、迫害、その他の困難に遭遇する。これら外からの艱難に加え、更に信仰上の危機(十字架の闇、信仰の闇夜と表現されることもある)が訪れる。しかし、それこそが主の顕現であり、主が自らそれを示される。主を受け入れ迎え入れる時、弟子達は直ちに目的の地に着くのである。
 以上、二つの奇跡から示される事柄を、思いつくままに拾い上げた。だが、これら奇跡は、一つの方向にのみ解釈される説話ではなく、実際に起きた事件である。現実の事件は、報告者によって少しずつ異なって語られるものである。各福音書の記述の微妙な差違は、この奇跡を「徴」として語る観点・解釈の違いであろう。ヨハネ伝の報告は、もっとも簡略で古い形体を残している。6章で続く説話は、ヨハネ伝がこの徴を用いてイエスが私達にとってどんな御方かを語るものである。

 主が、私達がそれを聞いて信じるために為して下さった奇跡(徴)を、大切に心に刻み信仰の糧としたい。