家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

マグダラのマリアへの顕現、「ノーリメタンゲーレ」

2022年5月1日

テキスト:ヨハネ伝20:11~18

讃美歌:273B&277

                      B. 救済者の天への帰還(13:1~20:31)
2. 受難と復活(18~21章)
 前回は、十字架の金曜日に行われたイエスの葬り、及び次の日曜日の早朝における空虚な墓の発見を取り上げた。 空虚な墓それ自体は、イエスのご遺体がないという事を伝えるだけであり、それ以上のものではない。 イエスの御復活とその意味を悟り、それに基づく福音信仰が成立するためには、復活の主御自身による宣教が必要であった。 今回から、イエスの弟子達への顕現を取り上げる。
少しゆっくりと、読んでいきたい。
20章(イエスの復活と弟子達への顕現、福音書の目的)
(1)イエスの復活と弟子達への顕現(20:1~29)
a. マグダラのマリアへの顕現(20:11~18)
①「我に触れるな=ノーリメタンゲーレ(ラテン語: Noli me tangere)」
 イエスの墓が空であるとのマグダラのマリア(女達)を聞いて駆けつけた男性二人(ペトロと愛弟子)が、事実確認して帰った後も、マリアはイエスの墓の前に佇んで泣いていた。 男達のように早く走れなくとも後からついてきたのであろう。 この場では、ほかの女達は存在せず、マリア唯一人であった。 彼女は墓に入らず、身を屈めて入り口から内部を覗いてみた。 イエスのご遺体を安置した場所(台座? )に、白い衣を着た天使が二人いるのを見た。 一人はイエスの頭のあった場所に、もう一人は足の置かれた場所に坐っていた、とある。 これは、ペテロらが確認した、頭を包んだ布とお身体をくるんだ亜麻布が別々に置かれて居たことと一致する。 普通、天使の顕現を見た人物は、仰天し畏怖の情に駆られるものだが、奇異なことにマグダラのマリアは余りびっくりしていない。 天使達は彼女に「女よ、なぜ泣いているのか?」と尋ね、彼女も涙ながらに平然と「誰か(人々)が私の主を移したのです。 主をどこに置いたのか、私には分からないのです」と答えている。
 この時、背後に人が立つ気配を感じて振り向くと、イエスが立っておられた。 だが、彼女はその人がイエスだとは気づかなかった。 イエスも彼女に「女よ、なぜ泣いているのか?」と天使と同じ事を尋ね、「誰を捜しているのか? 」と付け加えられた。 それでもマリアは彼をイエスとは思わず、園丁(園の管理をしている人)と勘違いして「主よ、もしあなたがあの方を運んだのであれば、その方をどこに置いたか、私に言って下さい。私がその方をひきとります」と言った。 勿論、この「主よ」は男性一般に対する敬称でしかない。
 イエスは、「マリアム!」と彼女の名を呼ばれた。 「マリア」はモーセの姉「ミリアム」に由来する名であり、ミリアム→マリアム→マリアと通称されるようになった女の名である。 いつもは「マリア」と表記するのに、呼ばれたそのままの音で「マリアム!」と表記され、マリアの返答も「ラッブーニ! 」と、口をついて出たアラム語のままで表記されている。 非常に生々しく、マリアの体験を直接聞いた者の伝承である事が分かる。 すでに振り返って対面しているのに、ここで再度「振り返って」と繰り返されているのは、イエスに名を呼ばれた事で、はじめて相手がイエスである事が分かったその衝撃、というか突然「目が開けた」ことを表現している。
 復活の主の顕現で特徴的なことは、主御自身が御自分を示そうとされない限り、相手は主を認識できないと言うことである。 地上のイエスを知っていた弟子達だけでなく、栄光の姿で顕現された(地上のイエスを知らない)ダマスコ途上のパウロにも、また「これらのいと小さい者の一人」として靴屋のマルチンや私達に出会われる場合も同じである。 私達が信仰に入ったのも、主が私達一人一人の名を呼んで召して下さったからである。 主御自身が今も宣教の主体として働き給うのである。 主が「信仰の導き手であり、その完成者」であることを今一度思い返したい。
 さて、ここでマグダラのマリアについて考えてみよう。 ヨハネ伝で、彼女が登場するのは十字架の下(19:25)が最初である。 他の福音書には「以前イエスに七つの悪霊を追い出して戴いた」(マルコ16:9~11)やガリラヤからイエスに従い「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕した」(ルカ8:1~3)女達の一人、等の説明がある。 だが、ヨハネ伝では何の紹介もなく登場している。 これは初期の教会で彼女がよく知られており、説明の必要がなかったからと考えられる。
 イエスは彼女にとって、世の救主である以前に「彼女自身の救主」であった。 七つの悪霊に支配され人間以下の苦海に沈んでいた彼女を、「人間の世界」へと救い出して下さった方であり、イエスのいます世界こそが生きる価値ある「人間の世界」であった。 墓場にいた狂人は身内の元に戻ったが、彼女には身内がいなかった。 いたとしてもとっくに離縁され、社会から追放されていた彼女にとって、イエスとその一行が身内であり、イエスに付き従い奉仕することが彼女の生き甲斐であり生活であった。 小説「通夜の客」で、亡くなった男と深く愛し合っていた女が、関係を形に表さなかったばっかりに、男の死によって全くの他人とされ、最後には形見の指輪まで失ってしまう絶望が描かれている。 マグダラのマリアのイエスへの愛は、男女の愛ではなく、深い敬慕・崇拝の念である。 だが、愛弟子同様、余りにも地上のイエスに固着する個人的要素の強いものだったのではないだろうか。 空虚な墓の前で泣く彼女は、もはや哀悼の対象であるご遺体さえ失った惨めさと絶望の中にいた。
 ここで変に思うのだが、ご遺体を包んだ亜麻布等が解かれているのを見て、男性弟子二人は当然、ご遺体が搬出されたのではなく、イエスが墓から自分で立ち去られた可能性に気がついていたであろう。 だが、彼女は相変わらず搬出されたと思い込んでいる。 ラザロの復活(蘇生)という奇跡を体験し、またイエスは御自分の復活を予告しておられた。 それなのに、マリアはイエスが復活or蘇生された可能性に全く思い至らない。

 このパースペクティブの低さを、単に女だったからと女性蔑視的に考えたくない。 (当時、女性は証人としての資格がなく、会堂で話をすることも認められてかった。 )余りの嘆きと絶望に動顛し、事態を把握し頭を働かせる余裕を失ったと考えるべきであろう。 つまり、彼女が如何に地上的イエスの存在に依存・固着していたかである。
 自分と話をしているのがイエスだ、と認識できたマリアは、感激のあまりイエスの膝にすがりついて礼拝しようとした。 これは以前から度々行ってきた、崇拝と敬慕の念を表明する動作である。 ところが、イエスは「私に触れるな」とこれを拒まれた。 よく絵画で見かける「ノーリメタンゲーレ」の図である。 イエスが手を上げて、マリアを拒んでいる。
 マリアは、まるでイエスの死と葬りがなかったかのように、従前同様イエス接触しようとした。 だが、復活のイエスは、マリアがそれまで知っていた地上的人間イエスではあり給わない。 地上の肉における生を既に終えられ、御自分の存在すべてを神に捧げ尽くして死なれた御方である。 現在マリアに出会っておられるのは、天地万物を更新させる新しい創造の初穂として立ち上がられた新しい霊の身体のイエスである。 地上の生活での「死に至るまでの従順」によって、人間の義を勝ち取られた栄光のお姿である。 この御方によって、人間だけでなく天地万物が更新されるのである。
 ミルトンの「失楽園」に、アダムとイヴの堕罪と同時に弱肉強食の生存競争が開始し、堕罪以前の彼らがそこに憩うことを無上の喜びとしたエデンの美しい丘が、北極の荒涼たる孤島に変化する有様が描写されている。 自然すらも贖われることを待ち望んでいる。 イエスは最後のアダムとして、新天新地更新の先駆け、死人からの復活の初穂として立ち上がられたのである。
 だから、もはや地上のイエスに対するように、御足を抱いて礼拝し、食物を供し、御衣を濯ぐ、といったような仕方で仕えることはできない。 イエスの「ノーリメタンゲーレ」は、この区別をマリアに告げておられる。
 だが次の言葉「私はまだ父のもとに昇っていないからである」は、難解である。 後日、トマスに御自分の手と脇腹に触れるように言っておられるからである。 肉におけるイエスを知っていた弟子達には、復活し顕現された御方が、確かに自分達と一緒に生活されたあの「ガリラヤのナザレ出身のイエス」、つまり同一性の証人となる任務がある。 マリアへの顕現も、この意味があるだろう。 だが、女性の証言に証拠能力を認めない時代である。 日曜日の早朝の空虚な墓の前での彼女への顕現は、最初の復活顕現であると思われるが、次第にペテロへの顕現が(証拠能力ある男性の)最初の復活証言とされるようになる。 だからマリアへの顕現は、他者への証言の為である以上に、彼女自身を立ち上がらせる為であり、永遠の命の君である御方に結ばれて彼に属する者となり、永遠に彼に愛され、彼を愛する者とされる為であったと考えられる。 イエスはもはや、マリアのいる地上の人間世界に戻られたのではなく、彼を信じる者達を、御自分がいます神と共にある世界へと引き上げるために顕現されたのである。
 このことは、彼女が帰宅して弟子達に告げた「私は<主>を見ました」という、復活証言の定型的表現(パウロも「私は主をみたではないか!」と語っている)に十分表現されている。 ここでの<主>は、もはやラビへの敬称「ラッブーニ」ではなく、<キュリオス>である。
 イエスを失って惨めに泣く彼女に、まずこのよき音信(福音)を告げられた復活の主の喜びと感動が、私達に伝わってくる。 このことの為に、彼は命を捨てられたのであった。