家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「神は死者の神ではなく、生ける者の神である」

 

2019年6月9日

テキスト:マタイ伝22:15~33

讃美歌:84&304

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                    A.イエスと敵対者たちとの対決(21:1~24:2)

3.エルサレムでの論争会話(22:15~46)
 前回まで、譬えによって敵対者達と論争し、彼らの偽善と思い上がりを批判されたイエスが、今度は敵対者達の問いに答える形で彼らの偽りを明らかにされる。
 前回の王子の婚宴の譬えでは、招待を無視したり派遣した僕に暴力を働いたことに対し、当人だけでなく町全体が滅ぼされ、また街角や大通りから呼び集められた者も、ふさわしからぬ装いであれば、外の暗闇に放り出されるという神の選びの厳しさが示された。あまりにも神の恵みを安価に考え、神の招きを真摯に受け止めないキリスト者や教会に対する警告であった。私達は、神が全宇宙の創造者・支配者であり、自分の命と自由な意志は(小作のように)神から貸与されたものであって、それを用いた人生(収穫・稔)を神に返し捧げるべきであることを教えられた。人間は神のものであり、自分を自分の主人としてはならないのである。
3.1 皇帝への税金
 パリサイ派の人々がイエスを罠にかけ、言葉尻を捕らえようと決議した。そこで、人を派遣して、お世辞をいった上で、ローマ皇帝に納税すべきかどうかを質問した。納税すべきでないといえば、ローマ当局に訴えられるし、納税せよといえばローマの支配に反感を抱いている民衆を敵にまわすことになる。イエスに対する罠であった。
 イエスは相手の悪意を知って、偽善者と非難された上で、ローマに納税する貨幣を見せるように言われた。質問した者がデナリ貨幣(表面にティベリウス帝の肖像、背面に女神として皇帝の母の肖像が浮彫されていた)を示すと、これは誰の肖像かと問い、「①カイザルのものはカイザルに、②神のものは神に返しなさい」との有名な言葉で質問に応じられた。質問者はこの返答に驚嘆し、一言もなく引き下がり立ち去った。
 イエスは単純に「①カイザルのものはカイザルに(=納税せよ)」と返答されたのではない。質問されていない「②神のものは神に返せ」を命じられたことが肝心である。これによって、罠にかけようとした者がかえって打ち伏せられ驚嘆させられた。なぜなら、「神のもの」とは一切だからである。「地とそこに満つるもの、世界とそこに住むものは、主のものである」(詩編24:1)。世俗的権力も、神の支配下にある。旧約聖書には、エジプトのパロやバビロニアネブカドネザルアッシリアのクロスなどが神の道具として用いられたことが記されている。彼らの権勢は神の謀によって与えられたのであった。
 聖書に通じるユダヤ人ならば当然、「世俗的権力には世俗的に従い、宗教的権力には内面的宗教的に従え」などと神の支配が半分であるかのようには解釈できなかった。世俗的権力(ローマ皇帝)さえ、神の支配下にあると言わざるを得ないからである。
 この箇所をイスラエルの信仰的伝統を理解しないで、世俗的と宗教的な二つの支配が並立するかのように解釈するのは間違っている。罠にかけようとして敬虔を装い、国家権力と宗教的権力が並存両立し、どちらに服従すべきか二者択一であるかのように問うた質問者の悪意と偽りを、イエスは打破された。神への服従は、単純に外面的・政治的領域に限定されるものではなく、それを含む一切においてではないかと言われたのである。
3.2 復活論争
 サドカイ派とは単に大祭司や宗教的貴族階級を示すのではなく、復活を否定し、口伝的律法解釈を認めないで成文化された律法のみを遵守する宗教的派閥である。大体が裕福な階級の人々で、民衆からはあまり人気がなく、少数派であった。復活後も夫婦関係が継続するなら、再婚した場合はどうなるか質問し、復活はあり得ないと主張しようとした。イエスは、彼らの聖書や神の力についての無理解を指摘し、復活後は人間も天使のように情欲から解放され性的関係に束縛されないと云われた。そして死人の復活について、燃える柴の中からモーセに呼びかけた神が、ご自分を称された厳かな言葉「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」を引用された。命の根源である生ける真の神との関係が継続するならば(exm.アブラハムの神)、神との交わりによって死の支配をまぬがれている。神は死者の神ではなくて、生者の神だからであると、言われた。神の独子、神の聖者ならではの神の力への深い理解と信頼は、(復活ありと信じていた)民衆をも驚かせた。(もちろん、質問したサドカイ派はその信仰の浅薄さを露呈し、恥ずかしいことになった)。
 これら二つのイエスの返答を読み、私達自身も驚嘆すべきである。
 私達は、人生や世界について自分の経験や理解、目に見えることによって判断してはいないか。神の現実は、人間の理解を遥かに超えている。「地とそこに満つるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」であり、この世を支配するように見える者が支配者ではないのである。エジプトもバビロンもアッシリアもローマ支配も消え去った。また、神との関係が保たれるかぎり死の支配下にない、と主は言われた。主イエスに結ばれ、主との関係が継続するならば、私達の死ぬべき存在も、死から命へと移されているのである。そして、とっくに死に失せたアブラハムが、神との関係によって生きているのならは、私達の愛する死者たちも、神にあって生きているのである!私たちは肉体的には老い、病み、衰えようとも、神にある命において新たなる力を得、希望の翼をもって上ることができる。そして、主が再び来たりたもう日、万物が更新されるその日に、連れ合いや友人知人、親たちや子孫たちと相見て喜び、共に神に感謝し賛美することができるのである。
 私たちの知識をはるかに超える主の言葉を、深い驚きと畏敬をもって傾聴する者でありたい。