家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」

 

2019年5月26日

テキスト:マタイ伝22:1~14

讃美歌:2&268

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                    A.イエスと敵対者たちとの対決(21:1~24:2)

2.エルサレムにおける第二日目ー敵対者との論争的譬え(21:18~22:14)
 前回は、洗礼者ヨハネへの態度と悪しき葡萄園小作人の譬えを取り上げた。前者においては、洗礼者ヨハネが義の道を示し徴税人や娼婦のような罪人まで悔い改めたのに、それを目撃しながら自分は「義人」と思い上がり悔い改めようとしないユダヤ教指導者達を批判された。神への従順は、表面的外見的な律法遵守ではなく、心から神を畏れ神の前に自分を罪ありとする悔い改めの精神にある。葡萄園小作人の譬えでは、神の慈しみを受け選民とされながら、神への従順という実を納めようとはせずに預言者達を迫害し、最後に神の「息子」を(エルサレムの)外に引きずり出して殺害した歴史的イスラエルへの裁きと、季節ごとに収穫を納める民族(ユダヤ人と異邦人からなる教会)に神の恩寵が注がれることが予告された。しかし、愛と義の業という「悔い改めにふさわしい実」を結ぶことが要件であり、単にイスラエルへの裁きではなく、同時に教会・キリスト者への警告であることを心に留めたい。今回の譬えも、私達自身に語られたものとして読んでいきたい。
2.4 王子の婚宴の譬え(21:23~32)
 この譬えは、ルカ伝にもあるが、両福音書のこの譬えの結末は大きく異なる。ルカ伝では、思いがけず神の国に招待された、宴会にふさわしからぬ者達(身体障害者や貧乏人)の感謝と喜びが結末であるが、マタイ伝では招待されたが、婚礼にふさわしくない服装の者が外に放り出され「泣き叫んだり、歯がみしたりする」裁きが結末となっている。
 ルカの教会が異邦人キリスト者を中心としたのに対し、マタイの教会は、迫害を受けシリアに移住してきたユダヤキリスト者が中心であった。だから、真のイスラエルとは、血筋や律法遵守だけではなく、悔い改めて「モーセ以上の」権威メシア・イエスに従う者達であることが、パリサイ派との闘争のなかで強調された。富める青年に語られたように、律法遵守を否定せず肯定する。だがそれだけでなく、それ以上に、一切を捨ててイエスに従うべきとした。
 その結果、家族も祖国も一切を捨ててシリアに移住せざるを得なくなっても、それだけでは充分ではない。愛と義の業という「悔い改めにふさわしい実」を納めねばならない。婚礼にふさわしい服装とは、愛と義の業を為すことである。人間はどこまでも自分の「功績」を主張するものである。律法遵守の功績ではなく、今度はイエス・キリストへの信仰(あるいは「一切を捨てて従ったこと」)を自分の「功績」とし、自分たちこそ真のイスラエルだと思い上がりかねない。だが信仰は、愛によって働き「その実によって知られる」ものでなければ本物ではないのである。
 イエスの語った天国の大宴会の譬えを、マタイの教会は、一切を捨てて従っただけでなく、愛と義の実を結ぶ信仰たれと説教したのである。
 マタイの教会のユダヤキリスト者達は、ローマ軍によるエルサレム陥落を、歴史的イスラエルに対する決定的な裁きと見た。彼らは、祖国滅亡をどんなに胸痛く、激しい恐れをもって体験したであろう。そして、神への畏怖をバビロン捕囚の時以上に痛切に感じ取った。詩編にあるとおり、「神を畏れること」は神との関係におけるもっとも基本的な態度であり、その上に神への愛・隣人への愛が築かれるのである。
 この譬えが、無礼な招待客だけでなくその町全体が軍隊によって焼き滅ぼされたとしているのは、ローマによるエルサレム陥落を意味している。神の厳しい裁きは、イエスを殺害しキリスト者を迫害した者達だけでなく、商売や仕事に励んでいたイスラエルの一般民衆にまで及んだのだ。(説教の)聴衆は、これが祖国イスラエルの滅亡であることを理解したであろう。
 もはや神の恩寵と選びは、歴史的イスラエルから取り去られ、異邦人を含む「悔い改めにふさわしい実」を結ぶ者達(隠されたイスラエル=新しい民族)に注がれる時が到来したのだ!福音が、一民族を超えて世界全体を対象とすることが明らかになった以上、福音を地の果てまで宣教せねばならない。そして宣教する自分達自身も、神の選びから漏れることの無いよう、愛と義の業を追い求めねばならない、というマタイの教会の緊張感・使命感と神への畏敬の念が伝わってくる。
 私達は、どうであろうか。洗礼を受け、教会に通えば自分は天国に入れるなど、福音を私的個人的御利益宗教に矮小化し、神の恵みが大バーゲンされているかのように思ってはいないだろうか。
 「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」のである。迫害を受け、福音宣教に努め、なおかつ愛と義の業を為すよう闘ったマタイの教会を思い起こそう。そして自分の「安価な恵み」信仰を悔い改め、真に神を畏れ敬う信仰が与えられるよう祈りたいとおもう。