2018年4月29日
テキスト: マタイ伝10:16~10:33
讃美歌:301&181
第2部 イスラエルにおける、言葉と行為によるイエスの活動(4:23~11:30)
C 弟子演説(9:36~11:1)
前回は、真の牧者(王)であるイエスが、飼う者のない羊の群れのように自分自身に放置された民を憐れまれたこと、福音を宣教し終末の時を来たらす働き人を収穫の主体である神に祈り求めるよう命じられたこと、そしてご自身の業を行わせるために十二弟子を選び、悪霊追放と癒しを行う権威を授けれたことが語られた。派遣の使命は、約束の民イスラエルに、天国が到来しつつあることを、言葉と癒しや悪霊追放の業によって告知することである。その姿は、主イエスご自身がそうであられたように、福音を告知された者の奉仕に身を委ね、神にのみ依り頼む示威的貧しさと無抵抗(杖を持たない)を示さねばならなかった。また、福音を告知することは、それを受け入れるか否かによって、救いか滅びかが決定する最後の審判の側面を持つことも語られた。今回は、使命を受けた弟子たちが、どのような体験をするかが語られる。
2.弟子たちのイスラエルへの派遣(10:5b~23)
b.弟子たちの迫害(10:16~23)
派遣された者たちは、イスラエルの町々で拒絶されるのみならず暴力をも体験する。それに対抗してはならない。鳩のように無害で無防備・清純であるために、蛇のような狡猾な聡明さも持っていなければならない。善意の宣教に対する迫害や憎しみに、いちいちショックを受け驚くのではなく、心ぞなえすべきである。イエスが人々に引き渡されたように、彼らもシナゴーグで裁判を受け、鞭うたれ、(異邦人の)総督や王の前に引き出される体験をする。それは民と異邦人の前で、福音を証しするためである。語るべきことは神(父)の霊がその時に示してくださる、と云われた。ここには、主イエスご自身の(ポンテオ・ピラトの前で立派な証しをされた)姿、ペテロやパウロら使徒たち、またマタイの教会の迫害体験が反映している。人々に引き渡されるとは、自分の自由を奪われ相手の意のままになることである。主が「引き渡され」たように、弟子たちにもまた「引き渡される」体験をするであろう。だが、「引き渡し」は、人間に対する神の愛の御意が成就し、人々に公に告知されることである。その場で弟子たちが示す言葉や行いにおいて、父(神)の霊が自ら働かれると予告された。
神が御子を罪人に「引き渡され」たように、福音もまた弟子たち=キリスト者の苦難においてこの世に「引き渡され」ねばならない。神の恵みと審きが働くためである。
だから、福音を信じる者は誰からも憎まれる。兄弟が兄弟を、親子がお互いを、殺害するために引き渡すという痛切な体験もあるであろう。苦難は、宣教に本質的に伴う事柄なのである。
だが、最後まで忍耐せよ。まだ宣教し終えないうちに、神の国は到来する。派遣された十二弟子が、イスラエルを回り終えないという意味を超えて、教会の宣教について語られていると読みたい。
3.主に従う弟子たちの苦難(10:24~42)
a.弟子は師を超えない(10:24&25)
宣教には、迫害や苦難・辱めが本質的に伴う。といっても、弟子が師を超えず、僕が主人を超えるものではないように、主に従う者(弟子)の苦難は、主ご自身の苦難や辱めに対し、何ほどのものであろうか。全能の神が御子を人間に引き渡され、御子も進んで人間に対する神の怒りを担われた、そのはかり知れない苦難と忍耐とはくらべものにならない。どんなに激しい苦難や殉教も、父なる神と御子が耐え忍んばれたことの、ホンの形ばかりの従いであり、しかも主の勝利によって慰められ担われているのである。
だから、彼らがイエスの権威によってなす悪霊追放・癒しなどがどんなに悪し様に罵られようと驚いてはならない。イエスご自身も(悪霊追放について)ベルゼブルといわたことを思えと云われた。主は、弟子を派遣するに付き、彼らをご自分の配下(家中の者)と呼び、励まされたのであった。
b.恐れない告知(10:26~33)
だから、福音宣教やイエスへの信仰告白について、人々の抵抗や評判を恐れてはならない。夜が明け初め、神の国の光が差し込んできた。この世の闇の中でその光を見た者、世の喧噪の中で静かに細い神の御声を聞いた者は、歓喜して堂々とそれを世に告げ知らせねばならない。体を殺せても、魂を殺すことのできない人間を恐れるのではなく、体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方、しかも罪人を愛して御子を引き渡して下さった方(神)を恐れねばならない。
野の鳥(雀)ですら心にかけ給う神は、お前たちをそれ以上に心にかけ配慮して下さらないはずがあるだろうか。神に信頼しなさいと主は云われた。
人々の前で、私イエスを恥じなかった者を、私も父の前で自分の者として受け入れよう。そして、人々の前で私を拒んだ者を、私も拒むであろうといわれた。
現在の私たちが、ここを読むとき、明治初期の長崎のキリシタンが「心の内だけで信ずることかないませぬ」と告白し迫害を受けたこと、だが一方、戦時下の日本のキリスト教会は弾圧を恐れ妥協せざるを得なかったこと、の二つを思い起こす。
今は、あたかも迫害がないかのように暮らしているけれども、ここに述べられているような迫害がいつ起こるかしれないのである。その時に、恐れないで主イエスを告白できるようでありたい。この世は、過ぎ去りつつある。神の国の到来と、主の再臨を、灯火の油を備えて待つことができるよう、切に聖霊の助けを祈り求めたいと思う。