2018年5月13日
テキスト: マタイ伝10:34~11:1
讃美歌:388&181
第2部 イスラエルにおける、言葉と行為によるイエスの活動(4:23~11:30)
C 弟子演説(9:36~11:1)
前回は、主イエスから全権を委託された者(弟子=教会)の行動に、敵意と迫害(苦難)そして死が必然的に伴うことが語られた。しかし恐れてはならないのである。恐れて、預かったタラント(福音)を、地面に埋めて隠したあの僕のように振る舞ったならば、最後の審判の時に、私の者ではないと主から拒まれることになる。
だから、福音に対してどういう態度をとるかは、委託を受けた弟子自身にとっても救いか滅びかを決する事柄なのである。官憲の弾圧を恐れて妥協した第二次世界大戦中のドイツおよび日本の教会は、懺悔すべきであった。同様に、現在の私たちも、救いを自分個人の事柄とし、積極的に公にイエスに従うことをしないならば、主の者として受け入れられないことを心に銘記せねばならない。
ここには、教会がなんであるかが明記されている。かつて主は、牧者のいない羊のような民を憐れみ、真の牧者であるご自分の業を行わせるために十二弟子を派遣された。そのように、現在のキリスト者=教会も、神を知らない世界(世間)に派遣されている。福音は決して教会内部(信仰者)だけに向けられたものではなく、全世界を対象とする。言葉による宣教だけでなく、病や死や差別や抑圧から人を解放する業もまた命じられている。だから生のあらゆる分野に、教職者や牧師に限らずキリスト者すべてが派遣されていると取るべきである。しかしその実践は、世間から憎まれ迫害を招くことになる。
今回は、その締めくくりである。
3.主に従う弟子たちの苦難(10:24~42)
c.家族の分裂と十字架(10:34~39)
福音宣教が、この世の秩序に神の国の秩序が突入することであるからには、イエスの到来は終末時の地上の混乱の開始である。他者だけではなく弟子(キリスト者)自身も、この世の秩序である地上の縁(家族愛や祖国愛)か、それとも永遠の御国での縁(キリストの者である)かの決断を迫られる。イエスよりも家族や祖国を愛する者は、主にふさわしくない。ここにマタイの教会の、祖国を追われ家族から憎まれシリアに逃亡した体験が反映している。
十字架を負うとは、処罰される者が自分が殺される十字架を背負って処刑場に赴くことであり、人目を惹く光景であった。殉教(死)を覚悟で、主に従ってこの世を歩むことをいう。主に従う苦難や死を恐れ、命を保とうとする者は、結局、体も魂も地獄で失う。だが、主に従った結果としてこの世で命を失った者は、真の永遠の命に生きることになる。
この永遠の命は、神の賜物であって決して業による報酬ではない。イエスへの愛は、業(行為)ではなく自分を捧げる真心(真実)だからである。
d.弟子たちに対するもてなし
だから、宣教のために放浪する「この小さな者」(派遣された十二弟子を超えてマタイの教会での放浪の伝道者たち、同時に現在も伝道する者たち)を、イエスの者であるからという理由でもてなし、支える者にもまた、伝道者たちと同じ報いが約束される。
定住し生計に携わりつつ教会に奉仕するキリスト者も、「主よ、いつあなたをもてなしましたか?いつ、牢屋にいるあなたを訪れましたか?」と驚くあの人々のように、法外な報いを神から受ける。なぜなら、神への真心は業の大小ではないからである。
私たちにとって、慰め深い約束ではではないか。
4.結び
こうして派遣する十二弟子に語り終えられたイエスは、ご自分も彼らと同様、またイスラエルの町や村を放浪し、その御業を続けられた。