家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イエスの逮捕

 

2019年12月1日

テキスト:マタイ伝26:47~56

讃美歌:138&506

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 今日から、待降節(アドヴェント)に入る。しかし、マタイ伝講読がいよいよイエスの逮捕と受難のくだりに入ったので、そのまま続けたいと思う。
 前回は、最後の晩餐後イエス一行がオリブ山に向かったこと、その途上で弟子達の離散とガリラヤでの再会を予告されたこと、オリブ山のゲッセマネで最も親しい3人の弟子達だけを伴って他の弟子達を離れ、不安と悲しみを露わにされ、3度祈られたことを学んだ。そして祈り終わり、受難の杯を受ける決意を強固にされ、眠っていた3人に「立て、行こう」と力強く言われた。今回はその続きである。
3. ゲッセマネにて(26:30~56)
3.3 イエスの逮捕(26:47~56)
 眠ってしまったペテロら3人は恥じ入って立ち上がったことであろう。イエスがまだ彼らに話しているときに、ユダがイエスのもとに近づいてきた。彼は、イエスを逮捕しようとする剣や棒をもった大勢の人を引き連れてきた。ユダはイエスの顔を知らない群衆に、自分が接吻する人が(逮捕の対象の)イエスだと教えていた。ユダはイエスに「ラビ、こんばんは」と挨拶して接吻した。「ラビ」という呼びかけは、イエスの敵対者らが使う呼びかけであり、最後の晩餐でもユダはこの言葉を使って「ラビ、(裏切るのは)私ではないでしょう?」と偽りを語った。もはや、弟子共同体から完全に脱落していることが示される。
 ユダの接吻が合図となり、祭司長達から派遣された者らがイエスに手をかけ拘束しようとした。それを止めようと、イエスのそば近くにいた弟子の一人(おそらくペテロ)が短剣を抜いて抵抗し、祭司長の奴隷の一人の耳を切り落とした。だが、イエスはそれを制止された。そして逮捕する者達に「私は毎日神殿で教えていたのに、そこでは私を捕らえなかった。そして(人気のない)ここで、まるで強盗を捕まえるように武器をもって私を捕らえるのか」と言われた。こうしてイエスは連れ去られ、弟子達は一人残らず逃げ去ってしまった。
 ユダは、イエスに対し何という酷い仕打ちをしたことだろうか。イエスは彼を愛し、十二弟子の一人と取り立て、信頼し、福音の宣教に派遣したことさえあった。その愛と信頼を裏切り、こともあろうに接吻を目印に逮捕させるとは。接吻は、旧ソ連などで多用されたような通常の挨拶ではない。最も熱烈な敬愛の徴であり、パウロも「聖なる接吻」という言葉を使っているとおり初期の教会で信仰を同じくする者同士の兄弟愛を示すものであった。詩編55:13~15「わたしを嘲る者が敵であればそれに耐えもしよう。…だが、それはお前なのだ。わたしの友」とあるように、イエスは愛し信頼した者からこれほどの裏切りを受けられた。

 ユダに対する呼びかけ「友」は、約束どおりの賃金に不平を言う農夫に対してブドウ園の主人や、あるいは礼服を着ないで宴会にやってきた者に対し招待した王が、相手を呼びかける言葉に使われていて、一応の敬意はしめすが、もはや自分の弟子としての親しみは込められていない。だが、同僚から友人までの関係を表す言葉であり、やはり上記詩編に歌われた耐え難い心の傷みを読み取らずにはいられない。
 ユダへの返答は短く、解釈が分かれている。共同訳よりも「友よ、(逮捕を手引きするためについに)きたのか」とルツの注解のように訳すのが自然であろう。イエスは最後の晩餐の席ですでにユダの裏切りを知っておられた。「何をしに来たのか」との問いや、「しようとすることをするがよい」では(現在しているのだから)文脈にあわない。そして、ユダの裏切りを止めようとはされなかった。ユダが、ご自分とは逆の意味で神のご意志を成就する道具あるいは歯車として用いられることを知っておられたからだ。「友」との呼びかけは、ユダが果たす役割への理解も込められているように思う。
 マタイが資料としたマルコ伝にはユダへの返答はない。マタイが付け加えたものである。ルカ伝では「ユダ、おまえは接吻で裏切るのか」となっている。この返答によって、マタイ伝では事態を主導掌握するイエスの尊厳が強調されている。
 短剣による抵抗を制止する言葉にも、同じくイエスの尊厳が示されている。彼は山上の垂訓で「悪人に手向かうな」(5:39)と教えられた。また、弟子達を派遣するに際し、剣どころか杖でさえ携えることを禁じられた。ユダヤ教では自己防衛のため、安息日でも短剣の所持は認められていた。だが、主はご自分の命令「悪人に手向かうな」を、このような極限の場面でも身をもって実践されたのである。天使の軍団(一軍団はローマでは5,600人だったそうである。だから、12軍団なら約7万の天使の軍勢)を呼ぶことも自在な神の子は、荒野の誘惑を退けられたと同様に、その力をあえて用いず、父のご意志に従われた。聖書に予言されたことを成就するためである。
 そして逮捕する群衆に向かって、神殿で平和に教えていた時には民衆をおそれ逮捕できなかったのに、(ユダの手引きで人気のない場所で)逮捕できたのは、預言書に書かれたことが実現するためであると言われた。祭司長らの策謀や力によってではなく、神の御意志の実現であることを明らかにされたのである。
 「受難のキリストの姿めめしとみゆ この派の人はかく描くか」という短歌があるが、実は正反対である。ゲッセマネの祈りを終え、イエスは力強く父のご意志に一致して行動された。逮捕者に抵抗するのは当然の正当防衛ではないか。だがそれを押さえ、あえて「悪人に手向かはない」のに、どれほどの力を必要とすることだろうか。また、天使の軍勢を意のままにできる神の子が、父の意志に従い、主人の命令で動く奴隷ごときにあえて連行されるとは、いかほどの従順さであろうか。全能なる神の子だからこその威厳と力をもって、イエスはかく振る舞われた。
 抵抗を禁じられた弟子達は、イエスと共に連行されることを恐れ、全員が逃げ去ってしまった。マルコ伝では、衣を捕まれてそれを脱ぎ捨て、裸で逃げた青年のエピソードがあるが、マタイは省いている。「ご一緒に死にます!」まで云ったペテロですら、イエスと一緒に連行されまいと隠れて、しかし一行の後を追っていったことが後の段落で分かる。
 とにかく、数時間前にイエスが予告された通り、弟子達は離散した。イエスは、あろうことか愛弟子12人の中の一人によって敵に売り渡され、他の弟子も、誰一人彼と生死を共にしようとはせずに逃げ去った。詩編31:12「ちまたでわたしを見る者は避けて逃げます」とあるように、彼は人に捨てられ給うたのである。
 今日取り上げた出来事は、わずか十分間程度のイエス逮捕劇である。私達はここから、ただちに自分への教訓を読み取ろうとするよりも、神の救いの業がどのように為されたかを、虚心に福音書から読み取ることが大切ではないだろうか。商業主義に毒されたクリスマスや年末の浮かれ騒ぎを超えて、神が人となり給うた卑下と、それが人間へのどれほどの大きな愛と憐れみであったかを深く思い、感謝を持って主を見上げる者でありたい。