家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた

2020年5月17日
聖書テキスト:ヨハネ伝1:13~18
讃美歌:67&122
                                            ヨハネによる福音書
                                           A.序文(1:1~18)
 前回は、序文の前半(1:1~13節)迄を学んだ。そこでは、以下の事が述べられた。ロゴスが父なる神から直接生まれた子なる神として創造以前からいました事、万物の根源であり、創造の初めから人間を照らす光として絶えず神を啓示しておられる事、そして洗礼者を先駆けとして世に到来されたが、世は彼をよそ者として扱った事、だが彼は、彼を受け入れ「その名」を信じる人々に、神の子供となる資格を与えた事、これらの人々は、本来の素質ではなく神的奇跡によって生み出された事、等である。今回はその続きである。
(7)ロゴスの受肉
「14節 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光をみた。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 ロゴスが「世」に到来されたことは既に9節で語られた。ここでは、それがどのような到来であったかが語られる。「肉」とは、個別の人間の「身体とその魂(プシュケー)」である。神が土塊に息(プシュケー)を吹き込まれて「人は生きるものとなった」と創世記にある。「土だから土に還る」有限な死すべき存在である。天上の父のもとに居ました永遠のロゴスが、そのような死ぬべき地上的存在、つまり「ナザレのイエス」という歴史的人間に、神によって存在を変化され、当時の「わたしたち=人間界」に宿られた。「宿られた」とあるのは「幕屋(テント)を張った」という言葉であり、定住ではない仮住まいであることを表している。イスラエルが荒野にある時、神は彼らの中に臨在の幕屋を設け、民と共に旅されたことが連想される。「闇」の世界に、反射光ではなく「太陽」が出現したのである。
 次の「わたしたちはその栄光をみた」の「わたしたち」は、当時の人間界を意味する最初の「わたしたち」とは違う。ロゴスの「肉」は、事実として罪を知らない御方であったから「罪の肉」ではないが、その可能性のある私達と同じ弱さをもった「罪の肉の様」であった。だから、啓示を受けない者には「肉」は見えても「その栄光」は見えない。それを見たのは、啓示を受け、照らされて、他の者達や次の世代に、その認識(見たこと)を伝えるべき「わたしたち」、つまり使徒的証人達であり、具体的には洗礼者や福音書記者である。
 彼らが「見た=認識した」栄光とは、1節で語られている第一者(父)なる神と本質を同じくする第二者(子)なる神が現す「神の栄光」である。父の「独り子」という語は、「息子」(フィオス)ではなく、「唯一人生まれた者」を意味する(モノゲネース)が使われており、この方のほかに神から直接生まれ栄光を分かち合う「子」はいないという意味が込められている。他の人間と全く同じ弱い「肉」において激しい誘惑と試練に曝されつつ、全く父に一致し、徹底して「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順であられ」(ピリピ2:8)、父にご自分を捧げられたお姿に、比較を絶する、超絶した神性=「独り子としての神の栄光」を見たのである。
 その栄光は「恵みと真理に満ちていた」は、モーセ十戒を付与する際、神が厳かに宣べられた御名「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみ(恵み)とまこと(真理)との豊かなる神」(出エジプト34章)に対応している。恵みとは「救済への積極的な神の意志」つまり恩寵であり、真理(アレーセイア)とは事物の本質(の認識)と一応考える。つまり、「救済の力」と「事物の本質の認識」に満ちた、神の栄光そのものである。
(8)先在の証言
「15節 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
 まず最初に「その栄光をみた」洗礼者は霊感に満たされ、「声を張り上げて」証しをした。「この方=肉となられたロゴス(イエス)こそ、私が預言した「私の後から来られ、先在者として私に優越する御方だ!」。洗礼者は自分の預言の成就を見、また、それを証言したのである。
 「声を張り上げ」たのは、自分の預言の成就を見た感激と霊感からであるが、同時にその必要もあった。彼は国中で評判の預言者であり、イエス御自身も彼から洗礼を受けたから、イエスヨハネに従う「弟子」と誤解される可能性があった。実際、ヨハネ伝執筆当時も洗礼者をメシアと考える集団があったようだ。だが洗礼者は、このイエスに、先在のロゴスの栄光を認識し、直ちに自分をロゴスに対する正しい位置に置いた。即ち、自分=洗礼者こそ「その靴の紐を解く資格もない」、(ロゴス=イエスに証人また預言者として仕える)「僕=奉仕者」なのである。
 詩篇に「私は山に向かって目を上げる。…私の助け(救い)は天地を造り給える主よりくる」とある。人は救いを求めて洗礼者のような偉大な人物(山)を見上げる。だが救いは(高い天も低い地も創造された)主から来ることを、洗礼者は指し示した。彼の偉大さはここにある。
 ヨハネの預言は、マルコ伝では「わたしより優れた方が、わたしよりも後から来る」(マルコ1:7)であるが、ヨハネ伝はその主語と述語を逆にし、優越の理由「先在性」を付加している。
(9)恵みと真理の啓示者
「16 節 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
 17節 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
 18節 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 ロゴスの栄光を見た「わたしたち=証人達」は、その栄光が、恵みと真理の充満であることを体験した(14節)。その証人達全員(新約時代の使徒的証人達だけでなく、旧約時代の預言者的証人達を含めた全員。従って両方を兼ねた洗礼者はその代表者である)は、この御方の汲めども尽きぬ源泉(充満)から「受けた」。何をかというと、「人間の救済への神の意志と力を認識する」という恵みを受けた。しかも「恵みの上に恵みを」、つまり一度限りでなく繰り返し何度も、それぞれの場合と状況に応じた適切さで、同じ溢れ出る「ロゴスの恵みと真理の充満」から受けた。
 (以上は、証人達の言葉である。だが、思えば現在の私達も、最初に信仰を与えられた恵みの上に、更に機会に応じて信仰が励まされ更新され、導かれてきた。「闇」である私達を照らし、信仰を与え、守り導き抜いて下さる数々の「恵み」に、ただ感謝あるのみ。)
 救済の象徴や予型とも云うべき律法は、モーセを介し、救済の約束として(民に)与えられた。そして、救済の実体である「いつくしみ(恵み)とまこと(真理)との豊かさ=恵みと真理の充満」は、イエス・キリスト(ここではじめてこの方の「名」が明かされる)の出来事を介して、現された。つまりイスラエル救済史において約束された救済が、イエス・キリストを通して実体化したというのである。だから「恵みの上に恵み」を、救済史的観点から①約束(の恵み)の上に、②その執行(という恵み)を受けた、と解釈することもできる。
 神の本質は、肉眼はもとより人間の能力で直接観照することはできない。定冠詞の付いた「神」、つまり父なる神を知るのは、「神」と本質を同じくする(定冠詞のない)神、即ち「父のふところの独り子である神」だけである。だからこの方だけが、父なる神を(ご自分の栄光によって、証人達、即ち洗礼者や福音書記者および信仰者達に)啓示されたのである。
 以上で、序文の全体を読み終えたことになる。ロゴス(言)やコスモス(世)、光や闇といった抽象的な言語を使用するこの賛歌は、理念(イデー)に疎い現代の私達には大変難解である。また同時に、救済の理念や理論は、救済を実現する神の行動として、地上のイエスの出来事が語られることなしには、単なる神話や哲学にすぎなくなってしまう。だからこそ著者は、そこに洗礼者ヨハネという歴史的人間の言動を絡ませ、地上のイエスの出来事を証言する序文としたのである。
 かつて地上を歩み給うたこの方の出来事なしに、私達の救いはない。復活して神の右に坐し、世の終わりまで働き給うイエス・キリストを見上げ、この方において天国を望み見る者でありたい。