家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「良い羊飼い」イエス-1

2021年3月21日

テキスト:ヨハネ伝10:1~16

讃美歌:7&234B

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
 前回は、イエスが「世の光」であることの徴として、9章の先天的盲人の癒やしを取り上げた。会堂追放された元盲人に、イエスがわざわざ出向かれてご自分を「人の子」として啓示される場面は、会堂追放された人々がヨハネ共同体に結集し、相互に信仰を励まし兄弟愛に励んだことを思わせる。これは、主がご自分の者達を呼び集め、教会(エクレシア)を建て給う業である。
 この先天的盲人は、求めもせずに思いがけない奇跡で肉眼の光を与えられる体験をした。だが、この奇跡に対する評価が、近隣住民、シナゴーグ長老達、サンヘドリンへと順次否定的になるにつれ、かえって本人自身の中では次第に強い確信となっていった。遂に、物乞いだった身を顧みずサンヘドリンの権威に言い逆らう迄に至った。会堂追放され仲間を失った彼に、イエスは改めてご自分を啓示された。この元盲人は、慈しみ深い自分の主を見出し、肉眼ばかりか永遠の生命の光にまで開眼できたのである。
 イエスは「このように、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と、言われた。これを聞き咎めたパリサイ人達が、詰め寄ると、イエスは「見えなかったのであれば罪はなかったであろう。しかし今、見えると言い張るところに罪が残る」と言われた。
 終末的審判者イエスの前に、全ての人が罪の闇の中にあることが露わになる。元盲人は自分が内外両面で闇の中にあることを十分味わっていた。だからこそ、光が与えられた事を理解したのである。だが、パリサイ人達は、自分達が罪の闇の中にあるとは自覚せず、「律法に教えられて…自分を盲人の導き手、闇のにいる者達の光」(ロマ2:18~20)と自負していた。だから、イエスが照らして下さる光に気がつかない、つまり見えなくなっている。そこに罪が残り、闇の中に残されてしまうのである。
 今回は、引き続きこのパリサイ人達に語られた話である。
 (7)良い羊飼い(10:1~42)
 神の民の指導者を羊飼いにたとえるのは、イスラエルの古来からの伝統である(民数27:16~17、エゼキエル34章など)。だが、10章の構成を見ると、9章末尾と何の繋がりもなく突然10章1節から「良い羊飼い」の話が始まり、なにか不自然である。そして19~21節で先天的盲人の癒やし事件が締めくくられた後、再び神殿奉献祭で同じ羊飼いの説話が繰り返されている。仮に、19~21節を9章41節の直後に配置すると、盲人の癒やし記事の結びとして自然に収まる。そして、1~18節を神殿奉献祭時の説話26節か27節の後に配置すると、これも話が自然に流れる。だから、この構成は最初からのものではなく、後の編集によって現在の位置に移されたと考えられている。
 ではその編集の意図は何か。イエスが会堂追放された元盲人を放置せず、自ら出向かれて彼に、ご自分を啓示された。その姿を、自ら羊を捜し出し生命へと導く「良き羊飼い」として示す為であったと思われる。イエスは、この盲人を人生の不幸から救い出したばかりでなく、ご自分を彼の慈しみ深い主人・飼い主として啓示され、ご自分の群れ(囲い)の中に迎入れて下さったのである。
 私達は、現在のこの構成の示すままに読んでいきたい。  
a.「羊の囲い」の謎(10:1~6)
 イエスは荘重なアーメン言葉で「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗である。門から入るものが羊飼いである」以下の言葉を語られた。
 当時のパレスチナでは、羊は村落単位の「囲い」に入れることが多かったようだ。その共同の囲いの門番は、預かっている羊の持ち主(羊飼い)にだけ門を開く。羊飼いが門から入ってくると、羊たちは自分の主人の声を聞き分け、餌場に連れ出してくれると期待して騒ぎだしたのではないか。羊飼いは自分の羊の名を一頭一頭呼んで連れ出す。全部連れ出すと群れの先頭に立って餌場に導いていく。群れは、その声に従って行く。だが、知らない者の声には従わず、逃げ出す。当時の日常的な、村の牧畜風景である。
 イエスが語られたことは、まず羊の囲いの正規の門を通らずに入ってくるのは、羊の持ち主(羊飼い)ではなく、強盗だと言うことである。羊飼いをイスラエルの指導者と考えると、強盗とは、偽指導者と言う事になる。この場面では、元盲人を会堂追放したユダヤ人達であろう。次に、羊は自分の飼い主の声を聞き分け、彼に従っていくが、他の者の声には従わず逃げ出すという事である。これは、後の26節と27節でユダヤ人達に語られる「あなた達は信じない。私の羊ではないからである」以下のイエスの言葉に、よく適合する。だが、ここではあの元盲人が、ユダヤ人達(サンヘドリン)に言い逆らい会堂追放された事に当てはまる。
 だが、「門を通らずほかの所を乗り越えて入ってくる」とは何の事だろうか。この文脈ではよく分からない。だから、パリサイ人達はこの「謎=真の意味を隠した表現」で、イエスが何を言おうとしているか、分からなかった。
b.謎の解き明かし(10:7~18)-1
 そこでイエスは、更にアーメン言葉で「私は羊の門である」と言われた。民数記27:16にイスラエルの牧者が「彼ら(イスラエルの会衆)の前に出入りし、彼らを導き出し、彼らを導き入れる」という記載がある。この「牧者=イスラエルの指導者」が出入りする門が、神と人との仲介者イエスである、と言っておられるのである。また、ヨハネ伝14章6節には「私は道であり、真理であり、生命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とある。つまり、イエスを通してのみ、人は神に近づくことができる、と言うことである。同じ事を、ヘブル書では、「エスの肉体である幕屋」として表現している。
 この言葉が、真剣に聞かれた事例としてバルメン宣言第一項がある。ナチスが福音に並ぶ権威としてドイツ指導者原理を掲げた時、「ドイツ告白教会」は、バルメン宣言を決議してこれに抵抗した。その第一項は、ヨハネ伝のこの二つの聖句を提詞とし、「聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」と告白した。そして続けて「教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、更に他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける」とした。この短い聖書の言葉が、ドイツ告白教会をして偽指導者ナチスに抗して立ち上がる力となったのである。
 では、8節の「私より前に来た者は皆、盗人であり強盗である」どう解釈すべきだろうか。「前に来た」を時間的に捉えて、イエス以前の預言者達とすることはできない。彼らはイエスを証言する者達だからである。また「前に来た」部分なしの有力写本も複数あるそうである。だから、イエスの救いの出来事(十字架と復活)抜きに(この箇所では、イエス到来前の律法だけで)、或いはそれに並んで、何かしら別の「真理」のようなものを振りかざし、神の民を指導しようとする者達であると解釈するのが正しいのではないだろうか。だから、ここではモーセの律法を振りかざして元盲人を会堂追放した保守的ユダヤ教指導者達がそれに当たる。なんと言っても一番恐ろしいのは、「神の唯一の御言葉(ロゴス)」であるエスの他に、またそれに並んで」神の啓示や「真理」があり得るかのような教えである。イエスという唯一の門を出入りして、人間は永遠の生命を養われる。イエスという門を通らずにくる指導者達は、強盗であり、羊を滅ぼす為に来る(ドイツ国民にとって、ナチスはそのような偽指導者であった)。これに対し、イエスは羊を養う為にきた。つまり永遠の命を豊かに得させる為である。かつて「見よ、私は、私自らわが羊を尋ねて、これを捜し出す」(エゼキエル34:11)と語られた通りに、イエスイスラエルの牧者として来臨された。彼は散らされた羊(元盲人)を探し出し群れに導く。彼は自分の民(羊たち)を愛し、彼らのために生命を捨てる。これに対し、羊を心に懸けない雇い人(エゼキエル34章にある、羊を養わない)羊飼いは、狼が羊を襲うままにして逃げ出す。だが、羊の主人は、羊の為に命がけで戦う。羊たちは彼のものだからである。羊の主人(イエス)は、自分の羊(民)一人一人を知っており、それぞれの場からそれぞれの名を呼んで導き出す。羊も彼の声を聞き分けてついて行く。イエスとその民を結ぶ絆は、イエスと父(神)を結ぶと同じ愛である。だからイエスは、愛する自分の民が「死を見ることがない」ために、神に見捨てられる恐ろしい死を、彼らに代わって受け、死んで下さったのである。
 さて、ここまで羊飼いとその群れとして、イエスとその民の関係が語られてきた。だが突然16節で「この囲いに入っていないほかの羊」が話題になる。これは、どういう意味か。文意は簡単である。「この囲い」をイスラエルの信仰伝統と捉れば、その中にいるのはまずユダヤ人(イスラエル)とその異端のサマリア人、それに後から加わった異邦人キリスト者である。だが、世の中には神に何の関心も持たない人達や、他の宗教に属する人達が多数存在する。それらの人々の中にもイエスの羊(民)が潜んでおり、イエスは彼らをも導き給う、と言うことである。
 よく知られている例だが、ヒンドゥー教徒ガンジーは、福音書のイエスの言葉に従い、無抵抗運動を実践指導した。彼は、社会的正義と人道実現という方面で、イエスに従った。イスラエルの牧者(指導者)がエゼキエル34章で叱責されているのは、「弱った者を強くせず、病んでいる者を癒やさず、…彼らを手荒く、厳しく治めている」と、社会的弱者を顧みない事である。イエスは、単に宗教的内面的世界だけでなく、現実のこの世界をも「正義と公平と慈しみ」によって導き給う「良き羊飼い」であり、主人である、と16節は宣言している。
 かつて、「二つの王国論」として教会と世俗を切り離す考え方があった。バルメン宣言を決議した「ドイツ告白教会」も、ユダヤ人や社会主義者が弾圧された時には、それを教会外のこととして傍観し、「良きサマリア人」ではなかった。つまり16節に真剣に聴かなかったのである。そして、教会に弾圧が及んで始めて立ち上がったが、その時には遅すぎた。それについての懺悔なくして、戦後の再出発はあり得ない。キリスト者は、教会外の世・社会の事柄についても、まだ神を知らない人々(世)と連帯すべきなのである。
 だが、ここで直ちに問題が起きる。イエスを主と告白することは、自分がそれまで属していた社会や家族から疎外され孤立する途ではないか?あの元盲人は会堂追放され、その両親はそれを恐れて返事を回避した。また「この囲い」の中すら、ユダヤ教キリスト教に分裂し、キリスト教も多くの教派に分裂・対立しているではないか。だが主は、私達一人一人の名を呼んで、それぞれの場から導き出し給う。アブラハムは「行くところを知らない」ままにだったが、私達は「約束の地」へと招かれ導き出されるのである。主の御声に従って出ていく他はない。それは、自分の仲間・家族を見捨てることではない。かえって「独り子を賜ったほどにこの世を愛して下さった」神への、世の為すべき応答の代理であり、同時に、まだそれを知らない「世=自分の人間仲間」に主を指し示す連帯と奉仕の業だからである。「こうして、羊は一人の羊飼い(イエス)に導かれ、一つの群れとなる」と、主は約束された。主は、思想・信条その他すべての「隔ての中垣」を取り去り、遂に私達を一つにして下さるであろう。
 まだ続きがあるが、今日はここまでにしたい。