家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

御子イエスの権能

2020年10月4日

テキスト:ヨハネ伝5:19~5:30

讃美歌:284&309

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
   前回は、ガリラヤにおける第二の奇跡(王の近臣の子供の遠隔からの癒やし)と、エルサレムにおけるベテスダの池での安息日の癒やしを取り上げた。安息日に荷を担ぐ律法違反を命じただけでなく、ご自分を御子として神と同格としたことが瀆神としてユダヤ人に憤激を生じさせた。ユダヤ人達のこの反応に答える形で、重要なキリスト論的説話が導入される。
(2)御子の権能(5:19~30)
 この段落に三つの「まことに、まことに、君たちに言う=アーメン、アーメン、あなた方に言う」19節、24節、25節)という言葉がある。この形式は、イエスの復活後最初に形成された共同体(教会)で重要なことを語る際に冒頭に「アーメン」を置く形式から発生し、マルコ伝では「まことに、君たちに言う」(アーメンが一回と告知予告)形式となり、ヨハネ伝にいたってアーメンが二回繰り返される形となった。従って、この言葉の後の文章は非常に古い教会の霊的伝承の言葉と考えられる。それをヨハネ伝著者が解説する形式で説話が形成されている。そこで、この三つのアーメン言葉の順番に読んでいきたい。
①御子の権威(5:19~23)
 イエスは、律法規定に反する癒やしや命令をする根拠として「子(息子)として父が行為されることを見るのでなければ、何一つ自分から行うことはできない。父の為されることは何でも、子も同様にするのである」と言われた。17節の「私の父は、今に至るも働いておられる。だから私も働くのである」を繰り返し強調し、父なる神とご自分の一体性を再度主張しておられる。Q資料にも同様のイエスの言葉が残されており、共観福音書に「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知るものはなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(マタイ11:27、ルカ10:22)と記載されている。これは父なる神とイエスの密接な関係を、父子相伝の技術になぞらえているが、ヨハネ伝ではイエスがご自分を無として、神に絶対的に従属・服従し、それがイエスの業が神御自身の業と一致する根拠となり、かえって絶対的な権威と優越の主張となる。
 20節、「父は子を愛して、ご自分がなさることをすべて子に見せるからである」。神はご自分の意図・計画のすべてを子に示される。人間となられた御子イエスは、見えざる神の御心を知ってそれを現実の世に実施される。万物への神の御心は、イエスを介して執行される。そして(病人の癒しよりも)更に大きな業(奇跡)を御子イエスに将来示されるであろう、と言われた。これは、イエス死からの復活(蘇生ではなく、死人からの初穂としての永遠の命への復活)を指していると思われる。人間がそれを驚く(怪しむ)ためである。癒しや蘇生はあり得るとしても、死から永遠の生命へと復活することに誰が驚かずにおられるだろうか。
 21節、「父が死人を起こして生命をお与えになるように、子もまた同じように自分の望む者達に生命をあたえるからである」。この場合の「子」は、復活者イエスである。当時のユダヤ人(特にパリサイ派)は終末時の死者の復活を信じていた。だから驚くのは、死人の復活そのこと自体ではなく、復活の生命を与える神の大権を「人間イエス」が執行する点にある。ラザロを復活させた行為は、この神御自身の大権をイエスが執行されたことである(ラザロは永遠の生命に復活したのではなく、蘇生であるから模擬的復活であるが)。ユダヤ人にとって赦しがたい瀆神行為であった。だが、万物への神の御心は、御子イエスを通して実施される。「起きて、床を取り上げて歩け」と命じられたと同様、イエスの御声が死人を立ち上がらせる。彼が復活させるのはご自分が復活させようと思う者達である。ベテスダの池のあの病人は、別に篤信者でも義人でもなく、ただ苦しむ者であった。イエスの憐れみは、苦しむ者・貧しい者に向けられている。決して、行いの義人達という狭い範囲ではない。父に服従して死を味わわれた御子イエスを、死人からの初穂として復活させた神は、彼に生命を与える大権をお授けになった。復活者イエスは、「生命を与える霊」(Ⅰコリント15:45)となられた。
 22節、父なる神の御心は万物の救済であり、裁きではない。救済の意図をもって御子を世に派遣されたのである。だが、御子の救済を受け入れず光を憎み闇に留まる者に対しては、光は即裁きの宣告となる。光が、闇を闇としてくっきりと浮かび上がらせるからである。御子への愛において万物を創造された方は、万物への一切の権限を御子に委ねられた。従って裁きも、御子によって決せられる。
23節、万物に対し神を代理される御子を敬う事が、神御自身を敬うことであるから、復活者イエスを崇めることが神御自身を崇めることであり、復活者イエスを否定することは神を否定することである。ここが、ヨハネ共同体=キリスト者が、ユダヤ教シナゴーグ側と戦っている点である。かつて地上を歩まれたイエスを、復活者として神と崇めるか否かである。
②現在における永遠の生命(5:24)
 人生の困窮の中にあっても、イエスの言葉を神の言葉として受け入れ聞く者達は、イエスの言葉を信じる事において、その時点で既に永遠の生命を与えられており、裁きの対象から外れ、死の範疇から脱する者となっている。遠い将来の終末になってやっとではなく、この人生の惨苦の中で辛くも、永遠の生命と喜びに触れられているのである。ヘブル書の義人達は「遙かにそれを望み見て喜んだ」が、キリスト者達は復活者イエスの支配という神の国(神の支配)が現存することを信じる信仰において、その時点で、終末を待たず既に死の支配から生命へと移されている。
③現在における終末の到来(5:25~30)
 ここは私達にとって、もっとも大きい驚きの箇所ではないだろうか。死者が神の子の御声を聞くとはどう言うことだろう。しかも、その時が「今すでに来ている」というのである。時間と空間を超越した先在の神の御子が、肉をとって世に到来された以上、天も地も黄泉も神の子の声に耳を傾ける。まして死から甦られた方、復活者イエスの御声は黄泉にまで響くのである。従ってキリスト教到来以前の人間達や生前キリスト者でなかった死人達も、イエスの福音を聞くことになる。ここにおいて生者達も死者達も平等である。肉において不公平な生を送った者(重度障害者や白痴)や機会を得なかった者も、死の状態においては平等である。彼らも聞いて信じる者と拒否する者が存在する。死者であっても、黄泉に到達する御声を聞いて信じる者は生きる、とイエスは言われる。神が「死人を生かし、無から有を生じさせる」御方であると同様に、イエスも「生命を与える霊」として語られるからである。生者が人生の困窮の中で希望を抱くと同様、死者も死のただ中で希望を抱くことが可能とされる。肉における死は、もはや終りではない。愛する死者達は私達のために祈っているであろう。同様に私達も、彼らと共にまた彼らのために祈ることができる。
 27~29節、そして、御子は終末時審判者「人の子」であるから、終りの日に「起きよ」との呼び声で死者を御前に呼び出すであろう。信じた者(善=神の意図を受け入れることを為した者)は永遠の生命へと復活し、信じないで拒否した者(悪=神への反逆を為した者)は死と裁きへと起き上がるであろう、と語られている。
 30節は、「御心のなりますように」と常に祈られた地上のイエスそのままの言葉である。御子はご自分の意志ではなく、ひたすらに父の御意志を行われる。だから、御子の裁きは正しく、神の御意志に叶う裁きである。19節で御子は「父のなさることは何でも」その通りに行われると、御子の行為が神御自身の意志の執行であることを示し、終りの日の裁きも御子によって決せられることを宣言している。
 私達には時間と空間に限定された生しか見えない。死者には時間も空間もない。だがイエスは、死に勝利して復活された方であり、その御声は、時間と空間を超越した彼方まで到達し、神の救いの実現を告げている。「今、ここで」信じる信仰において、私達は既に終末を待たず、虚無に漂う存在から永遠の神の国(神の支配)に根を下ろす者となる。義人は信仰によって「生きる」からである。
 今日、取り上げた箇所は頭で理解するのが困難であるというよりは、受け入れ信じ、現在の自分の世界観・死生観に徹底させることが困難な箇所である。25節、「死んだ者が神の子の声を聴く時が来る。今がその時である」を、文字通り死者が福音を聞くと受けとることがどんなに困難であるか。私は子供の頃からキリスト教の家庭に育った。しかしながら、人生とは生まれてから死ぬまでの間だけという考えは絶えず忍び寄ってきた。死後の有り様や死者との連帯について深く考えるようになったのは年配になってからである。ダンテは恋人ベアトリーチェを死を超えて愛した。無教会の藤井武牧師は喬子夫人を死を超えて愛し、復活の生を信じる信仰は燃える如くであった。人間的愛さえも死を超えるのである。イエス・キリストは、人間が肉において生きる間だけ充実して生きる為に十字架に死に給うたのではない。「信じる者がすべて滅びずして、永遠の生命に生きる為」に、死んで復活されたのである。私達は、この肉の生のみならず死をも超えてキリスト・イエスにおける神の愛が、罪も死も虚無をも克服し勝利し給うたことを信ずべきである。