家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

スカルの井戸辺で

2020年9月6日

テキスト:ヨハネ伝4:5~42

讃美歌:272&271

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)
2.救済者の初期の徴と啓示説話(2:1~4:54)
 前回、イエスエルサレム当局がイエスの動向を探っておられることを知ると、ユダヤを去りガリラヤに戻ることを決意された。その途中、サマリアを通過する必要があった、までを取り上げた。
(3)ガリラヤで活動開始されるまでの出来事(3:32~4:54) 
b.サマリアにて(4:1~42)
サマリアの女(4:5~26)
 イエス一行は、ユダヤからまっすぐ北上しシカル(スカル)というサマリアの町に来た。ヤコブが最愛の息子ヨセフに特別に遺贈したシケム(分け前の意味)の遺跡に近い、現在のアスカルという町であろうと言われている(図59参照)。シケムは、ヨシュアが12部族とヤーウェ契約を結ぶ集会を開き、士師時代には祭儀の中心地であり、北王国イスラエルの最初の首都であった等、イスラエル史に重要な位置を占めている。だが北王国滅亡後は、外国人移住者との混淆が進み、イスラエル信仰の純粋性が損なわれたとして、エルサレム神殿再建に参加することを拒まれた。そこで、彼らはゲリジム山アブラハムがイサクを奉献しようとした場所と言われている)に神殿を作り、祭司制度も構築し、ヤーウェ信仰を維持した。だが、サマリアを征服したハスモン王朝(マカベア家)がBC128年、シケムの町及びゲリジム山神殿を破壊し、その後、この地方の中心地は近くのシカル(この説話の舞台)に移った。ゲリジム山神殿跡地での礼拝は継続され、現在でもサマリア教の過越祭がここで行われている。
 シカルにヤコブの井戸があり、イエスは旅に疲れてそこに坐りこんでしまわれた。ちょうど暑い日盛りの正午近くであった。弟子達は食料調達に出かけ、イエスは一人であった。
 その時、一人のサマリア出身の女が水を汲みに来た。サマリア人をわざわざサマリア出身というのは、首都サマリア出身を意味する。つまり、この町(シカル)ではよそ者だということである。朝夕の仕事の水汲みを、この時刻にするというだけで、人目を避けていることが分かる。
 イエスは女に水を乞われた。(記述がないが多分、差し出された水を飲まれたことであろう)いつもは自分達サマリア人を見下げているユダヤ人から、ものを頼まれたのである。女は少し皮肉を言いたくなった。「あなたはユダヤ人だというのに、どうしてサマリア人の私に水を飲ませてくれと頼むんですか」と云った。著者は、ユダヤ人はサマリア人を異端として忌み嫌い、アンタッチャブル扱いしていたことを、異邦人読者に説明している。
 ところがイエス「あなたがもし『神の賜物』は何かを知っており、水を乞うた者が何者かを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、彼が『生ける水』をあなたに与えただろうに」と言われた。つまり、「神の賜物」とかイエスが何者かをわきまえていたら、立場が逆転し、「水」を乞うのはあなたの方だ、とやり返されたのである。『生ける水』とは、汲み置きの水ではなく、湧き水(泉や井戸の水)である。転じて、交読文40に「さあ、渇いている者は皆、水に来たれ、…来たりて価なくして飲め」(イザヤ55:1以下)とあるように、無代価で与えられ、汲みども尽きない神の賜物を暗示している。
 女は「神の賜物」の意味が分からず聞き流し、「生ける水」を文字通り湧き水と受け取った。だが、一応男性に対する敬称をつけて「主よ」といい「あなたは水を汲む道具を持ってないし、この井戸は深いのです。その『生ける水』を、どこから手に入れるのですか?あなたは、この井戸を私達に与えた父祖ヤコブよりも偉大だとでも云うんでしょうか。私達も家畜も、先祖伝来この井戸から飲んできたんですよ」と言った。このヤコブの井戸よりほかに、「生ける水」を手に入れられる訳ないでしょう、という意味である。
 ところがイエス「この井戸の水を飲んでもまた渇く。だが、私の与えようとする(未来形)水を飲む者はいつまでも渇くことなく、私の与えようとする水はその人の中で泉となって、永遠の命に至らせるだろう」と言われた。イエスの与えようとするのは、物質の水ではなく、聖霊による絶えざる神との交わりであり、「水を汲む」が象徴する「宗教儀式の繰り返し」が終わることを示されたのである。
 ところが女は、まだイエスの与えようとする「水」を物質の水と思い込んでいた。だが、もしかすると相手が預言者エリシャのような「神の人」で、奇跡的な尽きない「魔法の水」を与えようと言っているのかもと思った。そこで、彼が与えるという、飲めば二度と渇くことがなく、水汲み仕事も不要となる「その(奇跡的な)水を私に下さい」と願った。この時点で、イエスの最初の発言「あなたの方から、私に頼む」ということが実現している。イエスがそのように導かれたのである。
 だが、神の賜物を受けるためには自分の困窮を認めねばならない。イエスは「あなたの夫をここに連れて来なさい」と言い、女は「私には夫がいません」と云った。これだけでは、独身あるいは寡婦の可能性がある。ところがイエス、「その通りだ。あなたには5人の夫がいたが、今同棲しているのは夫ではない。あなたが言うことは本当だ」と言われた。実は、女は5回結婚し、現在は夫ではない男と同棲中だったのである。イエスはそれを曝露された。責める意図ではなく、光として相手の闇を明らかにされたのである。これが、女が町の人から疎まれ人目を避ける理由であった。イエスに、恥ずべき自分の姿を見抜かれた女は、ここに至ってやっと、イエスが今まで語っておられたのは「神の救い」であって、「物質の水」ではないことに気づき、愕然とする。〈この方は、預言者だ!私のありのままの姿と困窮を見抜き、そのうえで、神の言葉を伝えようとして下さるのだ!〉。
 女の悲しい経歴は、サマリア教の悲しい経歴に重なる。列王下17:24以下を読んでみよう。北王国滅亡後、五つの町(5人の夫?)から外国人が移住し、人種・宗教混淆の結果、エルサレム神殿礼拝から排除されたのである。だが、それでも先祖伝来のヤーウェ信仰にしがみつこうとしている。しかし、勝手に信仰(礼拝)しても、神がそれを受け入れてくれるという保証はないのだ。
 イエス預言者と信じ、改めて神に希望を抱いた女は、ではどこで祈ればいいのか教えてくれとイエスに迫った。ヤーウェを信仰したくとも、エルサレムでの礼拝からは排除されている。どうすればいいのか!これは彼女個人だけでなくサマリア人全体の切実なる問題であった。「私達の先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなた方(ユダヤ人)は礼拝すべき場所はエルサレムだと云っています」。「私達は」と云わず「私達の先祖は」と遠回しに言うことに、彼女の確信のなさと不安が表現されている。
 イエスは、あまりにも人間の思いを超えた事柄を語り出そうとして、その前にまず「女よ、私の言うことを信じなさい」と呼びかけられた。そしてA「ゲリジム山でもエルサレムでもない所で、父(神)を礼拝する時がくる」と、まずユダヤ教サマリア教の差別が解消されると告げられた。
 その上で、女の質問に直接答えて、B「あなた方(サマリア人)は、知らない神(啓示によらない習俗としての神)を礼拝をしているが、私達(ユダヤ人)は(啓示された)知っている神を礼拝している。救いはユダヤ人から来る」と、サマリア教に対し、ユダヤ教が正統のイスラエル信仰だと言われた。実際、救いは「ユダヤ人の王=イエス」から来るからである。
 A’「だがしかし、(ここが肝心なことだが)まことの礼拝をする者達が霊と真理によって父を礼拝する時が来るであろう」と言われた。真の礼拝について、23・24節が解説している。礼拝場所にこだわる外面的行為ではなく、いつどこにおいても神を愛し自分を献げるという(御子イエスが父に捧げ給うような)神への奉仕=「霊と真理による神礼拝」である。イエスが天に「上げられ」、聖霊が信仰者に派遣される時、信仰者達による「霊と真理による礼拝」が実現する。しかしそれは、イエス昇天後だけではない。聖霊降臨前においても、イエスを「神の子=救主」と信じる(上からの、神の働きによる)信仰において、真の神礼拝がすでに成立している。
 だからA’’「いや、今がその時である。」と言われた。
 イエスは女に、(ご自分が到来された以上)宗教的民族的差別を超越し、万人が共通して「霊と真理によって」神を礼拝する時が始まっていると、告げられたのであった。これは、地上のイエスが語られたと言うよりも、ヨハネ共同体の宣教する復活者イエスの言葉と解釈した方が良いのかも知れない。しかし私達にとって、史実がどうであったかというより、差別なく万人が等しく神を礼拝できるというメッセージを聞き取ることが大切だと思う。
 イエスに、万人が差別なくヤーウェを礼拝する時が来る、いや今がその時だと告げられても、まだ聖霊派遣前のサマリアの女は、「今」それが実現しているとは思えなかった。やはり終末になって、待ち望んだ救済者が到来して、それからのこととしか感じない。やはり自分達は希望を抱きつつ、このままの状態でメシア(サマリア教の)到来を待つしかないのだ。
 そこで、「キリストと呼ばれるメシアが到来されることは知っています。その方が到来されれば、私達に一切を告げて下さるでしょう」と云った。「キリストと呼ばれるメシア」とは、サマリア教の終末時救済者であり、「(モーセの)再来者=ターヘーブ」と呼ばれていた。複数存在するメシア(=油注がれた者)の一人の意味があり、ユダヤ教で待望するメシアとは少し違っている。
 女は、イエス「今がその時だ」と云われたことが信じ切れず、(遠い将来の)終末のことでしょうと言ったのである。ちょうどマルタが、イエス「ラザロは甦る」と言われても、現在のことは信じられず「終りの日に甦ることは知っております」と一般化したように、女も「今が、霊と真理によって父を礼拝する時」と云われても、その通りには信じられなかった。
 これに対し、イエスは厳かな神顕現の言葉で(エゴー・エイミー=I AM)「私こそ、それ(終末時審判者)である」と、メシア宣言をされた。
 ここまで読んできた私達も感動するのだから、女の驚愕と感動はいかばかりであっただろうか。物も言わず、持参した水瓶を放り出して、町へ駆け戻った。自分一箇で受けとめるにはあまりに大きい「知らせ」だったからである。そして「さあ、来て下さい。私の経歴をすべて言い当てた人がいます。この人が、あの『再来者』ではないでしょうか」と、人々に告げた。
 「さあ、来て下さい」とは、ピリポが親友ナタナエルに告げたと同じ言葉である。それを聞いて、町の人々はぞくぞくとイエスのところに押し寄せてきた。

 

サマリア人の信仰(4:27~42)
 イエスがまだ女と語っておられる時、町に食料調達にいった弟子達が戻ってきた。男性、しかもラビともあろう者が女と一対一で話すなどあり得ないことであったから、弟子達はひどく驚いた。しかし、口を挟まないで黙って待っていた。
 だが、女が突然立ち去ってしまったので、弟子達は調達してきた食料をイエスに勧めた。ところが、空腹の筈のイエスが、「私には、あなた方が知らない食物がある」と言われるではないか。弟子達は自分達が留守の間に誰かが食料を差し上げたのかと不思議に思った。イエスは、「私の食物とは、私を遣わされた方の御心を行い、その方の御業を為し遂げることである」と言われた。
 あの女の、社会的にも信仰的にも見捨てられた、寄る辺ない有様が、疲れも空腹も忘れてイエスを駆り立て、熱く神の救いを説くエネルギーとなったのである。失われた羊を追い求め、神のもとに連れ帰ること、それがイエスの活動の原動力であり、食物である。神は世を愛してイエスを派遣された。イエスは神の愛を体現し、派遣された業を為し遂げるために働く。そのことがイエスを動かす活力源であり食物なのだといわれた。
 そして弟子達に言われた。「(土を耕し、種を蒔く労苦の時から)刈り入れの喜びの時まで、まだ四ヶ月ある、とあなた方は言っている。だが、目を上げて見なさい、畑は既に収穫を待っている」。神の民イスラエルの外にも、あのサマリア出身の女のように、神の救いを切実に必要とする人間が世に溢れている。「苅る者=宣教する者」は、収穫時の臨時雇いのように、既に報酬(労働対価)の支払いを受けて、働いている。つまり、福音を受け入れた者は、「永遠の命」という報酬の先払いを受けて、直ちにその喜びを他者に伝える働き(宣教)を為す。ピリポはナタナエルに、サマリアの女は町の人々に。彼らは、自分が受けた喜び(報酬)を他者に伝えるのである。
 「種を蒔く者(福音成就に労苦するイエス)も収穫する者(宣教する者)も、共々に喜ぶためである」。福音を成就する方(イエス)は、人間が福音を受け取り、他者にも伝えることを、彼らと共に喜び給う。だから、「種まきする者、収穫する者は別々だ」という諺どおりになる。即ち、イエスが世に降り十字架に上げられる働きの成果・稔りを、弟子達・キリスト者が収穫するのである。(ヨハネ伝は、復活のイエスを地上のイエスに重ねて語る。だから、イエスを救主と信じ得た喜びを、先払いされた報酬として、キリスト宣教者達を鼓舞するのである。)
 「他者が労苦し、あなた方(弟子達・宣教者達)はその労苦の実に与っているのである」。
 さて、女に言われてイエスのもとに来た町の人々は、どうかこの町に滞在して下さいとイエスに願った。そこで、なお二日、イエス一行はこの町に滞在し、その間に多くの(この町および周辺の)人々がイエスの言葉を聞いて信じた。そして、イエスを最初に伝えた女に、「私達は、もはやあなたの経歴をすべて言い当てたと聞いてこの御方を信じるのではない。直接自分で聞いて、この方こそ、まことに世の救主であることが分かった」と言った。最初は女が経歴をすべて言い当てられたと聞いて、すべてを明らかにする「再来者」かも知れないと思った。だが、イエスから直接聞くにおよんで、今度は自分から信じたというのである。信仰者は誰も二次的・三次的信仰者ではない。それぞれが直接イエスに結びつくのである。
 また「世の救主」という言葉に注目したい。彼らはイエスを、女が最初に伝えたようなサマリア教の「再来者」としてではなく、民族を超越した「人間世界全体の救主」と信じたのである。これは、もうキリスト教の「救主」である。女の信仰も、イエスの言葉を繰り返し聞いて彼ら同様に深められたであろう。彼女は、もはや町の人々から疎外され軽蔑されるよそ者としてでなく、信仰の仲間・先達として語りかけられている。イエスは、彼女を宗教的疎外(信仰的不安)からだけでなく(近隣からのけ者にされる)社会的疎外からも助け出されたのである。キリスト者となったサマリア人達が「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」教会共同体に受け入れられた喜びが伝わってくるではないか。
 おそらく史実的には、最初にサマリア伝道が行われたのは使徒行伝が伝えるように、イエス復活後のピリポらの伝道活動によるものかも知れない。しかし、もともとエルサレム神殿礼拝から排除されていたサマリア人たちは、ユダヤ教サマリア教の差別を超越した「全世界の救主」と、万人が等しく神を礼拝しうること、を深く感動して受け入れたに違いない。この説話は、そうした(イエス復活後の)キリスト教の状況を反映している。
 しかし史実がどうあろうと、イエスが旅の疲れも渇きも忘れ、取るに足らない一人の女、しかも罪の女のために、熱心に救いを説かれた情景は、私達の心に忘れがたく残る。正統のヤーウェ礼拝から閉め出されたサマリア人達が、いつどこであっても万人共通の「霊と真理による神礼拝」を為し得ることを教えられた感謝と喜びに共感するのである。この説話の核となったサマリア通過中の出来事がなんであるにしろ、復活の主は、今も聖書の言葉と派遣された弟子達の中で、このように私達一人一人に語りかけてくださっているからである。