家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

十人の乙女の譬えと、タラントの譬え

 

2019年9月22日

テキスト:マタイ伝25:1~30

讃美歌:355&344

 

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                      B.審判についての演説(24:3~25:46)

 前回は、終末がいつ来るかは父なる神以外誰も知らない。だから、「目を覚まして」いるべきであると、イエスが戒められたこと、そして「目を覚まして」いることは具体的には何かを、「忠実な僕と悪い僕」の譬えから学んだ。それは奉仕の務め、つまり人間仲間に対する愛を忘れないことであった。
 今回もその続きであり、終末を待つ教会のあり方についてである。
2.4 十人の乙女(25:1~13)
 この譬えは、マタイ伝だけの記事であり、他の福音書に平行記事はない。だが、美術や音楽(バッハの「目覚めよと呼ばわる声す」等)に多く取り入れられて、ひときわ有名である。

 イエスはご自分を他の箇所でも「花婿」に例えられているから、読者は直ちに、花婿を再臨のイエス、祝宴を天国の祝宴と理解したであろう。花嫁は登場しないが、ホセアが「花嫁の日の《あなた》の愛」とイスラエルに呼びかけ、また雅歌に「愛する者によりかかって(荒野から)上ってくる《者》」と信仰共同体なるイスラエルを呼んでいるから、読者は当然、キリストの花嫁なる真のイスラエル=教会(集合人格)と想定している。個々のキリスト者は花嫁そのものではなくその成員であり、この譬えでは花嫁に供奉する乙女たちになぞらえられている。当時の婚礼は、花婿が花嫁を迎えに来て、華やかな花嫁行列をして新居(花婿の父の家)に赴き、そこで祝宴が行われた。乙女たちの仕事(役割)はその行列(花嫁道中)を多くの松明で明るく照らしだすことにある。
 1節は、この譬えのタイトルであり、「松明を掲げて花婿を迎えに出て行く乙女たち」とでも考えるべきである。乙女たちが松明(棒の先に油を浸した布入りの容器が付属している)をもって、花嫁の実家で待機している。なにかの事情で、花婿到来が遅れ、全員が居眠りしていると、突然、花婿到来を知らせる声がした。慌てて彼女らは松明に点火し花嫁行列を構成しようとする。だが、松明に補給する油がない者がいた。それではすぐ火が消えてしまい、行列を照らし出すことができない。油を用意していた者達も自分の分しかなく分けてもらうことができない。結局、行列に参加できず、祝宴の部屋が閉じられてから駆け付けたが、閉め出されてしまった。
 これは、実際の婚礼の話としては少し変である。松明の油なら、花嫁の実家で用意しているだろうし、第一お祝いの宴席に駆け付けた者を閉め出すなど考えられない。また、遅れてきた者達が花婿を神のように「主よ」と呼びかけることもありえない。だから、最初から主の再臨を待つキリスト者のあり方を教える譬えとして語られている。
 イエスは、山上の説教で「あなた方の光を人々の前に輝かせなさい」マタイ4:16と語っておられる。賢い乙女達が行列の果てるまで松明を燃やし続けて歩いたように、キリスト者たちは御国の喜びに入る日まで、忍耐と希望の信仰をもって愛の業を輝かせ続けねばならない。地上の教会は麦と毒麦の混成体である。神の国の祝宴に受け入れられるのは、終わりまで主の者として振舞ってきた者だけである。単に洗礼を受け教会に籍を置けば、天国に受け入れられるのではない。愛において働く信仰を保ち続け、油断なくあれとこの譬えは語っている。
2.5 タラントの譬え(25:14~30)
 この譬えも人口に膾炙している。タラントは貨幣の単位から、人の能力・才能に転化し、人それぞれ能力を活用せよの意味に解釈されている。だが、これは前の譬えと同様、キリスト者達が主の再臨を待つあり方を教えているのであって、世俗的な能力(実績)至上主義を教えているのではない。
 奴隷の主人が長い旅に出発するにあたり、財産を活用させるため三人の奴隷に、その能力に応じた金額を預けた。数年後帰国して、預けた財産を清算することになった。二人はそれぞれ元手とその儲けを主人に渡した。主人は喜んで、二人に同じ言葉をいう。「お前は、わずかなものに忠実であった。だから、もっと多くのものを管理させよう。お前の主人と共に喜んでくれ!」。ところが、一番少額を預けた奴隷は、「ご主人様あなたは種蒔きしなかった処から刈り入れ、撒かないところから集める、苛酷で厳しい方とわかっておりました。だから私は、お預かりしたものを布にくるんで土に埋め、戻られたらそのままお返しできるようにしたのです。どうか、お受け取り下さい」といって、預けた金をそのまま返した。主人は怒ってその役立たずの奴隷を放り出し、その金を一番多く預けた者に渡した。
 29節の「持っているものは更に与えられ…、持っていない者は持っているものまで取り上げられる」を、この世の経済状況の不公平さをそのまま是認する言葉のように受け取るのは間違っている。これは、主を待つキリスト者のあり方についてなのである。 
 信仰は神が私達の心に蒔いてくださった種、いわば預けられた財産である。それを蒔くために、神はどんなに大きな恵みを施してくださったことであろうか。この種はそれ自体、一粒の芥子種のように空の鳥もその陰に宿るほど大きく成長する力を持っている。神の支配(天国)がその人の中で成長し、永遠の命という義の実を結ばしめるのである。自分一個の救いのために小心翼々たるキリスト者もあれば、同胞ユダヤ人がみな救われるためなら自分がキリストから引き離されても構わないと語るほど大きな信仰を与えられた使徒もいた。しかし、神から賜った同じ信仰である。小さな信仰であっても、それを用いることによって大きく成長する。

 主は「能力に応じて」与え、苛酷な取り立てをする方ではない。主の荷は軽く、その軛は柔らかである。何よりも御言葉を心に蓄え、それによって生きようとする経験によて、主の御力と愛を知り、主を愛するようになる。代々の信仰者の歌である詩篇は、「苦しみにあったのは私には良いことであった。それによってあなたの掟を学びえたから」と歌っている。自分や他人の経験から学んで、初めの信仰が成長していくのである。肝心なのは業績(儲けの多寡)ではなく、信仰によって生きようとする意志である。
 「天路歴程」の中で、薄信者という巡礼が強盗に襲われたエピソードが出てくる。抵抗もできず殴り倒され、主からお預かりした信仰という宝石以外全て奪われ、物乞いをしたり愚痴を言いつつ道中をつづけたと聞いて、若いホウプフル(希望者)は彼の覇気のなさを笑った。だが、年長のクリスチャンはそれをたしなめる。主の助けなくば、自分がどんなに弱いかを経験から知って、謙遜を学んでいるからである。私達も、不幸や試練にあうと、ひざ打ち震え蒼白となる「薄信者」ではないだろうか。だが主は、消えようとする信仰の火に油を注いで燃え立たせ、助けを送って支えてくださる。信仰を大切に守り通し、人生の旅路を進んでいきたい。
 主の来臨を待つということは、何もしないで待つことではない。これらの譬えで示されたように、①他者に奉仕し、②愛の業を輝かせ、③与えられた信仰を少しでも成長させ、積極的に神の国の備えをして、主を待つことである。