家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

終末と、目を覚ましていること

 

2019年9月8日

テキスト:マタイ伝24:32~24:51

讃美歌: 228&536

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                      B.審判についての演説(24:3~25:46)

 前回、イエスが神殿を去り、オリブ山で説教の座につかれると、弟子たちが①世界の終末と②世界審判者の人の子の来臨について、その時と徴をお尋ねした。
 ①(その時点)については何もお答えにならず、ただ、偽預言者やメシア僭称者が現れても惑わされるなと言われた。戦乱やその噂、大災害や民族対立が起きるが、それらはまだ終末の始まりの徴に過ぎない。イエスの弟子(キリスト者)達は、イエス信従のゆえに外部から憎まれ迫害されるだけでなく、内部からも、偽預言者に惑わされ、不法がはびこり、お互いの愛が冷えるという苦難を受ける、と言われた。つまり、これらのことは、終わりが開始する徴に過ぎない。その苦難を受けつつ、全世界に福音が宣教されて、初めて終わりとなるといわれた。
 ②メシア再臨の徴については、徴(奇跡等の)不要、そのものずばり人の子の来臨あるのみとお答えになった。その来臨の黙示的表現を、現代人は受け入れがたいという。それならば、主の復活のお体は、この時間と空間のどこにあると信じるのであろうか。時間と空間を超越した「天」の存在を信じないなら、主が生きた者として存在しておられることも、信じられないであろう。言い換えれば、私達は主の御復活とそのお体を信じるから、主のいます「天」を信じる。そして、やがて「天が開け」、主とその御国がこの世界に到来することを待ち望んでいる。
 今日は、その続きである。
2.教会に対する最後の勧告(24:32~25:30)
2.1 終末と再臨は近い(24:32~35)
 「イチジクの木(パレスチナでは普通の樹木。冬は丸裸だが、夏には葉を茂らせ結実する)の枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏が近づいたことがわかる。そのように、これらの徴(戦乱や大災害、外部からの迫害、内部の対立や愛の冷却)を体験するとき、主の来臨が近いことを思いなさい。はっきり言っておくが、あなた方の世代は、これらのことを一切体験するまでは過ぎ去らない。天地は過ぎ去っていくが、私の言葉は過ぎ去ることはない。」
 イエスは、終末をごく近いこととして言っておられる。「この時代」とあるのは「この世代」の意味である。確かに、エルサレム陥落で歴史的イスラエル(民族国家イスラエル)に終末が来た。だが、世界の終末と主の来臨は、起きなかった。使徒時代も、古代教会の時代も過ぎ去り、世界史にいろいろなことがあり現代に至っている。終末の遅延のおかげで、多くの神の国の証人が生まれ、私達も存在できた。大災害も戦乱も、教会の分裂や混乱も起きたが、まだ終末ではない。でも、だからと言って、あと千年くらいは終末はないと予測していいのだろうか。キリスト者は、これらの徴(患難と教会の混乱)を見て、主の来臨の近さを思うべきである。時代は過ぎ去ろうとも、主の言葉は決して滅びない。時の切迫を思うべき理由の一つは、私達の人生の短さである。生涯の終わりに、主にまみえ、神の前に立つ。一方、あまりに救いを個人的に捉え、この世で罪と死が支配することに無関心になるのは、「阿片」としての信仰になる。私達は、この世に正義と公平がみなぎりあふれ、愛と平和が支配する神の国が到来することを待ち望む。そして、神の約束し給うた御国が、地上に実現する終わりの日に向かって、歴史が進んでいることを信じるのである。
2.2 終末の時点は誰も知らない。だから、目を覚ましているべきこと(24:36~44)
 イエスご自身も、世界の終末をエルサレム陥落からほど遠くない時期と思っておられたようだ。主ご自身も、終末と再臨の時点を知っておられなかった。ただ、それに備えて「目を覚ましている」ようにと、戒められた。ノアの時代、洪水が来るまで、人々は平常通り生活し、飲み食いし、娶ったり嫁いだりしていた。そして、洪水が一切を飲み込んだ。人の子の再臨の時も、同様であろう。同じ職場で働き、同じ家庭で暮らす二人のうち、一人が(選民として)連れていかれ、もう一方は取り残される。その基準は、単に洗礼を受けたかどうか等の外面的なものではありえない。常に目を覚まし、主の者として振舞っているかどうかにかかっている。
 盗賊がいつ襲ってくるのか分かっていたら、待ち構えて盗賊の侵入を許さないであろう。だが、いつ来るかわからないから、常に用心し身構えているべきである。盗賊の襲撃と主の来臨の一致点は、思いがけなさである。再臨は当分ないと思ってはいけない。常に心しておくべきである。死は予測不能とはいえ、ある程度予測し準備できる。だが、世の終わりは、それ以上に予測不能である。自分の死が先か、世の終わりが先か、だれも知らない。私達は、子孫の存続を願う。だが、世の終わりはそれもこれも押し流すのである。
 では、どのようにすれば、備えて「目を覚ましている」ことになるのだろうか。
2.3 忠実な僕と悪い僕(24:45~51)
 この譬えは、監督者としての僕について語っており、私達自身には当てはまらないように考えやすい。しかし、牧師や職場の長でなくとも、私達にはゆだねられた人間仲間がいる、職場の仲間、近隣の人々、家庭内の人間たち、その他教会内外で出会う人々。私達は、エジプトの宰相ヨセフのようには、他の人々のために行動することはできない。だが、この譬えの悪い僕のように、他の人間を利用するだけで、彼ら自身の願いや必要に応えようとしない態度とは、何のことか理解できる。他者を受け入れ、彼ら自身の必要に応えようとする態度、親切さと真心をもって他者に対さねばならない。つまり、信仰のあるなしにかかわらず、人間仲間に対する愛を忘れないでいること、が命じられている。
 「主よ、いつあなたにそうしましたか?」と、最後の審判の時に人は尋ねるという。「これらの小さいものの一人にしたことは、私にしたことなのだ」と主はお応えになる。
 主は「天」にいますだけではない。苦しみ罪を犯し悲しむ人間と共にいます。無教会の浅見仙作牧師は、牢獄でコソ泥や人間のかすのような人々に囲まれ、善意を欺かれ嘲笑され、やりきれない思いに陥った。その時、それらの人々の中に主が出現し給うを拝した、と語っている。主は、彼らへの親切は、ご自分に対するものであることを示して、浅見牧師を支えられたのである。だから相手の応答にかかわらず、主のために、他者に対し誠実で親切であらねばならない。それが、「他の使用人の世話をさせるためにたてた忠実な僕」のなすべきことである。自分が、影響力もない些細な人間だからと言って何の責任もないわけではない。自分に委ねられた人達に心から尽くし、誠実であること、これが主の来臨に備えて「目を覚ましていること」の一つの在り方である。
 私達は、主に支えられて自分の弱さや過ちを乗り越え、心から人に仕えて、「目を覚まして」主を待ち望んでいることを証すべきである。