家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

終末時と終末

 

2019年8月25日

テキスト:マタイ伝24:3~24:31

讃美歌:228&271

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                      B.審判についての演説(24:3~25:46)

 エルサレム入城以来、主に神殿におけるイエスの言動が語られてきた。そして前回、敵対者達との対立が終局に達し、イエスが神殿を見捨てて立ち去られた。インマヌエル(神の臨在)である方は、神殿を去って神を知らない世界に向かわれる。そして「この世」から呼び集めた者達、現在の私達もそうである「終わりの時代」に生きるキリスト者たちに向かって語られる。この段落の後は、ただ十字架の出来事と復活があるばかりである。
1.終末時と終末(24:3~31)
 イエスは、オリブ山(イスラエル近郊の丘)に座しておられると(山上の垂訓のような説教の座で)、弟子たちがやってきて最後の審判とイエスの再臨が①いつ起きるか、また②その徴はどのようなものか、お尋ねした。この質問は、最後の審判のみならずイエスの再臨についてもお尋ねしている。イエス生前(十字架以前)に為されたとしたらちょっと妙である。おそらくマタイの教会の疑問を、弟子たちの質問として提出したのではないだろうか。
 イエスはなんとお答えになっただろうか。
 まず、「人に惑わされるな」である。キリストを称する者が大勢現れ、多くの人が惑わされる。また、戦争や騒乱の噂が飛び交っても動揺してはならない。それらは起こるに決まっているが、世の終わりではない。戦争や民族対立、飢饉や地震が起きても、(終末の)産みの苦しみの初めに過ぎない。あなた方(弟子・キリスト者)は、苦しみを受け、殺される!また、イエスへの信仰ゆえにあらゆる民(同国民と異国民)から憎まれる。そのとき、多くのキリスト者が躓き、互いに裏切り、憎み合うようになる。多数の偽預言者が現れ、多くの者が惑わされる。不法がはびこり、教会内部で互いの愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そのような苦難の中で福音があらゆる民のものとして証しされ、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る。
 要するに、ここにはステパノ殺害から始まり、マタイの教会が体験しているあらゆる迫害や苦しみが詰め込まれている。イエス信従のゆえに親兄弟から追い出され、同胞や異民族から迫害を受けているだけではない。ユダヤ戦争や騒乱も体験した。キリスト者同士でも、愛が冷え、対立と憎しみが出現し、偽預言者に惑わされる体験がある。キリスト者キリスト者を(迫害者)に引き渡すという裏切りもあったであろう。苦しみの中にある教会は、主の再臨はいつ来るのか、いつまで耐え忍ばねばならないか、を切実に問うていた。
 答は「終わりまで」である。生涯の終わりまで、主の再臨の日まで、希望をもって耐え抜く者のみが(終末の日に)救に入れられるということである。また、そうした苦難の状況のなかで福音が証しされ、全世界に宣べ伝えられてから、終末がくる。つまり、終りまで耐え忍ぶことが求められている。
 次の段は、あの忘れがたいエルサレム陥落の事後預言となっている。イザヤが神の顕現を体験したあのエルサレム神殿が、もやは再建不能の廃墟となった。エルサレム教会は、その寸前に山地に逃げたが、安息日を順守したマサダ砦は全滅した。歴史的イスラエルは終わった。「その日には、屋上にいる者は、上着をとりに階下に降りたりせず、直ちに屋上非常階段から逃げよ。嵐や夜、安息日(マタイの教会には、まだ安息日規定にこだわる者もいたから)でないよう祈れ」と云われている。大混乱の中、奇跡や徴をかざして、メシアを自称する者が現れ、また「メシアがどこそこにいる」と聞いても惑わされるはならない。(当時、イエス誕生に似た目立たない再臨を信じる者もいて、「あそこにおられる」等の再臨デマがあったようだ)。メシア出現は、それ自体明白な出来事であり、徴や奇跡を必要としない。稲妻が一瞬にして全地平を照らし、ハゲタカが群がれば死体の存在がわかるように、メシア再臨はそれ自体明らかだから。
 次の段落は、人の子(高挙のイエス・キリスト)の来臨についてである。それは、これらの苦難の日々の後にやってくる。「太陽も月も光を失い、天体は揺り動かされ、人の子の徴が天に現れ、人の子が(神のように)天の雲にのって出現し、ラッパの音を合図に、天使たちが選民を四方から呼び集める」。この黙示的表現を、現代人は受け入れがたいという。そうだろうか?私達が存在する時間と空間を創造し、保っておられる方(神)は、それらを超越した「天」におられる。そして、地上の人間と世界を顧み、歴史に介入され、人の子イエスとしてこの世に到来された。また、復活後に天に高挙され、今そこにおられる。キリスト者に約束された復活の命も、天に属する。ステパノが殉教するとき「天が開け」主が神の御座の傍らに立っておられるのを見たという。終わりの日に「天が開け」このような有様が誰の目にも明らかになること、を私達は待ち望んでいるのではないか。その時、時間と空間に限定されたあらゆる事象が溶解することも、想像がつく。ヘブル書に「私達は、見えないものに眼を注ぐ」とある。キリスト者は、肉の目には見えない天の永遠の御国が世界に到来する日を待ち望んでいるのだ。
 その日まで「冬眠」して待つことはできない。大災害や戦乱を体験し、外部の人間からは憎まれ、迫害され、殺されることもある。それだけでなく、教会内部でメシア僭称者や偽預言者に惑わされ、キリスト者同士の愛が冷え、互いに裏切るという苦しみを体験せねばならない。だがしかし、これはマタイの教会ではなく私達自身が体験してきたことではないか。日本のキリスト教は、戦争中に敵性宗教と憎まれ、同胞や近隣から白眼視や弾圧を受けた。しかも、教会自身、「日本的キリスト教」に惑わされ、ホーリネス教団を当局に引き渡し、神社参拝を朝鮮キリスト者に強制した。戦後も、戦争責任罪責告白等の問題で対立があった。個人的にも、教会内の不和を体験した。実に惨々たる私達日本のキリスト者ではないか。
 しかし、教会や自分に絶望してはならない。キリストは罪人を贖い、義と命へと召してくださった。だからキリスト者はみな、途上にある。主の真実により頼んで進まねばばならない。人間的信念は弱く惑わされ易い。自分にも教会のリーダーにも(つまり人間を)頼んではならない。罪人を召してキリスト者として下さった方、教会を導き給う主を信じ、自分の罪や過ちから立ち上がらねばならない。福音は私達のような(悔い改めた)罪人達によって証しされ、全世界に宣べ伝えられ、その後に終末となるのだから。
 言い換えれば、イエスが枕するところなく旅しつつ、貧しいものに福音を宣べ伝え、敵意と苦難を受けられたように、キリスト者も自分なりにその御跡をたどるべきなのである。神の臨在(インマヌエル)は、神殿を捨て、神なき世界に向かわれた。愛が冷え、悪と罪が混在する教会においても、主が臨在し群れを導き給う。だから、信仰者は自力で耐え忍ぶのではない。主が、世の終わりまで教会と共にいて希望と力を与え、それを為さしめて下さるのである。自分たちの希望をしっかりと見上げて日々進んでいきたい。