家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

預言者の墓を建て、「自分なら迫害しなかった」という。

 

2019年7月28日

テキスト:マタイ伝23:13~33

讃美歌:132&138

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                    A.イエスと敵対者たちとの対決(21:1~24:2)

4.律法学者とパリサイ人達に対する災いなるかなの演説(21:1~24:2)
 前回、「律法学者・パリサイ人」に対するマタイ伝の評価が、イエスをメシアと受け入れないイスラエル多数派を代表させたものであり、歴史的事実を不当に歪めたものであることを述べた。また歴史的には、キリスト教内部でのセクト争い(例えば、プロテスタントカトリックや、ルター派と再洗礼派等)で少数派あるいは迫害を受ける側が、相手側(教皇など)を、この段落に表現された「学者・パリサイ人」として罵り、「律法学者・パリサイ人」を肉的な業の義の代表者に仕立て上げてしまった。
 その上、一般信徒も印刷術の普及により聖書を読むようになり、マタイ伝の「学者・パリサイ人」批判をそのまま鵜吞みにしてユダヤ人への反感を募らせ、近代の反ユダヤ主義形成に寄与した。かくして、アウシュビッツユダヤ人大虐殺)を到来させたのである。
 これを、ヨーロッパ・キリスト者だけの罪責と考えるならば、今日読んだ箇所にあるように、「その記念碑(墓)」を建て、自分たちなら決してしなかったであろうという偽善者と同じになる。現在の日本の私達も、キリスト教信仰の先祖達の罪を自分自身の咎として心に刻まねばならない。「私達の先祖は、罪を犯しました。私達はその咎を負うべきです」。
 日本においても、中国人や朝鮮人を下等民族と蔑み、実験動物のように人体実験を行ったではないか。「アウシュビッツ以後」の私達は、この箇所を読むごとに先祖(親の世代)の犯した罪責を自分自身の咎と受け止め、語り伝え、再び繰り返さないよう切に祈りたい。
4.2 7重の災いなるかなの叫び(23:13~33)
 イエス物語としての文脈からいえば、不毛な敵対者との論争を終え、イエスを受け入れようとしないイスラエルに審判と裁きが告げられることになる。その前提として「災いなるかな」と、相手に呼びかけるのである。同じような「災いなるかな」の呼びかけで審判を告げる預言書(イザヤ・アモスほか)の伝統を知る者は、審判の言葉を待ちかまえる。しかし、呼びかけは7回繰り返され、告知される裁きの重大さが示される。また、それを語るのは預言者(神の言葉を預かった者)ではなく、審判者である主ご自身が直接告げられる。裁きの重大さ深刻さがわかる。以下、一項目ずつ読んでいく。
 ①天国に入ることの妨害。
 マタイ伝執筆当時、神殿祭儀を中心とした宗教的貴族階級は消滅し、律法のみをよりどころとするユダヤ教が形成されつつあった。パリサイ派は、エッセネ派のような孤立したセクト集団ではなく、全イスラエルを対象とし、日常生活を祭儀的清浄規定に適用させようとする聖化運動であって、シナゴーグの一大勢力であった。また、古代的律法を現在の生活に適用させるために律法学者を必要とすることから、両者は近い関係にあった。従って、シナゴーグから迫害を受けたユダヤキリスト者マタイが、「律法学者・パリサイ人」に、イエスを受け入れないイスラエル多数派を代表させている。自分もイエスを信じないだけでなく、人が信じることも妨害し天国に入れないようにする者達は、「災いだ」。
 ②異邦人を改宗させ、もっとひどい地獄の子にする。
 異邦人まで改宗させ、割礼やバプテスマ、清浄規定等の形式的敬虔に凝り固まった者達とする。ユダヤキリスト者が、律法の「精神(神への愛と隣人愛)」を重んじるのとは逆だというのである。しかし、「学者・パリサイ人」がキリスト教のように熱心な伝道を行ったという典拠はなく、「陸海を歩き回って」は誇張である。
 ③誓いのランク付け
 これは現在ではわかりにくい。当時、自分の言葉を保証するため誓いが濫用された。そこで、律法学者達が誓いの厳粛さを回復するため誓いを対象によってランク付けしていたようである。これに対し、キリスト者は誓いそのものを神名冒涜として禁じた。
 ④些細な薬味まで十分の一税の対象とするが、肝心な「正義・憐れみ・そして忠実(神と隣人への誠実)」をおろそかにする。
 これは、形式的敬虔を大切にしつつ、かつ「正義・憐れみ・そして忠実(神と隣人への誠実)」を重んじた学者・パリサイ人もいたことを無視している。イエスご自身やマタイの教会も、律法の一点一画まで大切に守るべきとすることにおいて、彼らと共通していた。
 ⑤器の外側と内側からの清浄
 人を清くするのは、器などの外面的清浄ではなく、内側からの清浄(心の中の清浄)であるというのである。だがイエスご自身やユダヤキリスト者達は、異邦人キリスト者パウロのように「すべてのものが清い」まで徹底せず、律法の清浄規定を尊重した。
 ⑥白く塗られた墓
 正しい信仰無くして、外面的形式的に敬虔であるのは白塗りの墓のようだ。
 預言者・義人の墓を建て、自分なら彼らを迫害しなかったとうそぶく。
 これは、現在の私達にもそのまま当てはまる。アウシュビッツや広島・長崎の記念碑を建て、もし自分がその時代にいたらこんなことはしなかったというなら、親の世代を切り捨てる冷酷さと傲慢において、親の腹を食い破って出てくる(と考えられた)蝮の子であり、蝮そのものなのである。墓を建てることのが悪いのではなく、先祖の罪を引き受けようとしない傲慢さが罪なのである。
 実際は、預言者・義人の墓を建てたのは、民衆のご機嫌取りをしようとしたイスラエルの貴族階級であり、庶民の「学者・パリサイ人」ではなかった。
 以上、これらの「災いなるかな」は、「イエスを受け入れないイスラエル多数派」に向けたものと考える。それにしても、このあまりの容赦なさは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というイエスの言葉と矛盾しないだろうか。
 しかし、マタイはこれらの言葉を、イエスの口に置いた。この方は、神に背くイスラエル(と全人類)の罪を贖うために、十字架に赴かれる方である。神の怒りはことごとく罪人ではなくこの方の上に漏らし尽くされ、彼は彼を信じる者の「贖罪所」となられた。だから、これはイスラエルを裁き、かつそれを贖った方の言葉なのである。
 たとえどんなに良心的な「律法学者・パリサイ人」や「キリスト者」であったとしても、自分の「敬虔」や業によって義たらんとするなら、弾劾されるべき「偽善者」である。「豹がその模様を変えることができようか!」と預言者は語っている。人が義とされるのは、ただイエスの十字架によってのみ、恵みによってのみである。絶えずこれに立ち返り、主の十字架を見上げようではないか。