家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イエスの受難予告と弟子達の奉仕の定め

2019年3月17日

テキスト:マタイ伝20:17~28

讃美歌:258&515

                  第4部 教会におけるイエスの活動(16:21~20:34)
                    C.エルサレムへの途上で(19:1~20:34)

 前回は、天国の報いについて葡萄園の労働者の譬えによって学んだ。被造物にすぎない人間・滅ぶべき罪人が、天国に受け入れられ=神の子とされることは、人間の側から神に要求できることではなく、ただ一方的に神の恩寵と憐れみによる。それは決してお手軽な「安価な恵み」ではなく、神ご自身がそのひとり子をナザレのイエスとして人間に引き渡されるという高価な代価を支払われたのであった。3月6日からレント(受難節=四旬節)に入っている。神がどんなに大きな代価を支払って私達を贖われたかに思いを寄せつつ、今日の箇所を学んででいきたい。
5.イエスの受難告知(20:17~19)
 エルサレムへと向かわれることは、受難へと向かわれることである。イエスの死は近い。マタイ福音書を読む者達はすでにマルコ福音書でこのことを知っていた。イエスは十二弟子(イエスに従う者の中でも特にご自分の者と考えられた者達)を呼び寄せ、十六章で示し始められたように要約的にではなく詳細に、ユダヤ人(祭司長=サドカイ人や律法学者=パリサイ人)に引き渡され、彼らによって死を宣告され、侮辱し鞭打ち十字架につけるために異邦人(ローマ人)に引き渡されること、そして、三日目に甦らされることを予告された。律法学者は実はイエス捕縛に関わってはいないが、マタイはユダヤ人を代表する者達、つまり神を待ち望んでいるはずの選民によって、イエスが拒否され死に引き渡されたことを示したかったのであろう。異邦人による侮辱や十字架も、選民自身がメシアに仕向けた反逆行為と考えられている。アンダーラインを引いた①(ユダヤ人に)引き渡され、と②甦らされる、は神的受動態であり、この二つの枠内の出来事の主体は神ご自身であることを示している。イエスは、これらの出来事が神のご計画であることを、ご自分の者達に示されたのであった。
6.弟子達の受難と奉仕
 ゼベダイ兄弟(ヤコブヨハネ)の母がやってきて、イエスにひれ伏した。何かお願いしたいからであろう。だが、イエスに促されるまであえて自分から口を開かない慎みを持っていた。イエスに促されると、天国で息子達をイエスの左右に座らせて欲しいと願った。つまり、ゼベダイ兄弟の願いを彼女が代弁した。彼らは(たとえイエスと共に死んでも)イエスへの忠義をつらぬく覚悟であり、忠誠な者としてイエスに認めてもらいたかったのである。イエスは彼らに自分の飲むべき杯(杯とは死の運命を意味した)を飲めるかと尋ねた。彼らは熱烈に「飲めます!」と答えた。(実際には、イエス捕縛の時に逃げ出してしまったが)その時にはイエスのために死んでもいいという気持ちであったのである。イエスは、彼らの逃亡も殉教する運命もすべて知っておられたので、「あなた方は私の杯(殉教の死)を飲むであろう。だが、私の左右に座することは父なる神のみがお決めになることだ」と、彼らの願いを拒否された。
 他の弟子達は、これを聞いて(抜け駆けしようとした)ゼベダイ兄弟に憤慨した。イエスはそれを知って、弟子達を呼び寄せ、言われた。「異邦人の君主は、彼らを支配し、大いなる者は彼らの上に権力をふるっている。だが、あなた方の間ではそうであってはならない。大いなる者となりたいものは、仕える者となり、筆頭者となりたいものは、奴隷となるべきである。それはちょうど、人の子(イエス)が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人の贖いとして自分の命を捧げるためであるのと同様である」。
 マタイ受難曲で、ピラトが「この人(イエス)はどんな悪事をしたのか?」と尋ねると、ソプラノのレシタチーブが「彼は…、盲人に視力を与え、足萎えを歩かせ、父なる神の言葉を語り、悲しむ者を慰め、罪人を受け入れました」と応じ、そのまま「愛のために、私の救い主は死に赴こうとするのです(Aus Liebe mein Heiland sterben)」という有名なアリアが始まる。そのように、イエスはその民イスラエルを支配し権力を振るおうとはされず、まるで僕のように彼らに奉仕し、自分の命まで捧げられた。イエスの者達(弟子・キリスト者)もかくあるべきであり、どんな形であれ権力や尊敬を受けることを願うのではなく、忠義な従者や僕のように他者に奉仕し、献身すべきであるといわれた。そんなことが、人間に可能であろうか?
 パウロは自分を「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、侮辱されては優しい言葉をかけ、…まるで人間の屑のように見なされている」と語った。しかし、彼はそのようにせざるを得ない。「なぜなら、キリストの愛が私に迫っているから」といった。人間性には不可能なことを、注がれたキリストの御霊(聖霊)がなさしめるのである。
 アブラハムがひとり子イサクを神に捧げようとした時、神への愛に自分を賭ける自己消滅点(バニシングポイント)を体験した。だが神は、現実にひとり子イエスを捧げられ、人間への愛にご自身を賭けてくださった。また御子ご自身も、進んで人間に代わり、神に見放された大罪人としての死を遂げてくださった。私達を自分の民・子とするために、父なる神・子なる神がこうしてご自身を捧げてくださった以上、私達も神と隣人に自分を捧げることができるのである。天国の秩序は互いに自分を捧げあう愛の秩序だからである。