家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

葡萄園の労働者の譬え

2019年3月3日

テキスト:マタイ伝20:1~16

讃美歌:520&249

                  第4部 教会におけるイエスの活動(16:21~20:34)
                    C.エルサレムへの途上で(19:1~20:34)

 前回、富める青年の話の結びに、一切を放棄して従った弟子達の報酬について語られた。天国で、彼らは主のために失ったものの幾百倍の報いと、永遠の命を受け継ぐ。だが、多く先の者は後になり、後の者は先になるだろうとイエスは言われた。
 永遠の命とは、神と神が遣わされた者(イエス)を知ることだとヨハネ福音書に記されている。私達を愛し、私達のためにその一人子を遣わされた神の愛を知り、その民となること、すなわち神を得る以上の報酬はあり得ない。また無限大に大小があり得ないと同様、天国という報いに大小や優劣はあり得ない。従って、一切を捨てて主に従った者も、最後の最後に悔い改めた者も、報いとして受けるのは同じ天国である。しかも、多く先の者は後に、後の者は先に、報いを得るという。それは不公平ではないのか?今回は、そのような問いへの答えである。
4.葡萄園の労働者(20:1~16)
 有名なこの譬えで、農園の主人は最初の労働者と報酬1デナリの契約を交わす。その後に雇用した労働者には、何も契約していない。労働者は時給相応の賃金を期待して農園に派遣されたことであろう。最後に、全く異常なことに、一日の労働の終わる寸前にこの農園主は、また人を雇用したのである。彼らは、ほとんど農園に立ち寄っただけの働きしかできていない。ところが、主人はこの最後の者から支払いを開始し、丸一日分の賃金1デナリを支払った。後の者達も時給相応ではなく1デナリ支払いを受けた。そして、契約通りの賃金を支払われた者達は、農園主に不公平だと文句を言った。これは、通常の雇用契約なら当たり前であろう。ところが農園主は、彼らに契約通りを履行した正当性と自分の所有権の自由を主張し、彼らのねたみを非難した。
 葡萄園は、旧約聖書においても神の畑としてよく登場する譬えであったから、この譬えも神の報いについて語られるであろうことは、ユダヤ教徒もよく理解し得たであろう。神の報酬は、労働と賃金の交換、すなわち業績に応じた報いという取引契約ではなく、全面的に神の一方的な憐れみの行為であることは、旧約聖書でも知られていた。「神の目は、低い者に注がれる」「神は高く居まして、低き者を顧み給う」ほか、詩編に多く歌われ、イザヤ書では「金なき者も来たれ、値なく飲め」と言われている。すなわち神の愛は、低き者・無価値な者へと向かう、恩寵そのものなのである。。
 先の話での弟子達の問い、「一切を捨てて従った者への報い」は、業績に対応する報いの考えを匂わせる。ところが、神の恵みは「価値なき者」に向かうのである。イエスは、義人やパリサイ人ではなく、職業的に律法を守り得ない取税人・罪人(アム・ハーレツと呼ばれた)や、まともに人間扱いされない病人・障害者・女・子供に近づかれ、彼らを癒し、受け入れ給うた。
 私達はどうしても、神を因果応報の法則の番人・執行者として考えようとする。何とかして「業の義」を手に入れ、相応の報いを得ようとする。神に対して、自分の権利と報酬を要求しようとする。そして、陶器師が粘土を自由に扱うように、造物主が被造物を自由に扱う権利があることを忘れ、「なんで私がこんな目に遭わねばならないか!」などと言いがちである。だが、神は陶器師が粘土を扱うようにではなく、自分の産みの子供であるかのように人間を扱われた。
 親が、子供が環境に順調に適応している時よりも、適応できず危険な状態にある時にいっそう心配し心にかけるように、神は自分に逆らって迷い出た人間を追い求め、立ち返らせようと、預言者達を遣わし、最後にご自分のひとり子イエスを遣わされた。罪人が立ち返るとき天では大きな喜びがある。
 天国とは、神が人間を被造物以上の者、神の子供・民となすという驚くべき「恵み」そのものであり、業績への報いではない。「一切を捨てて従った」などの自分の業績を考慮する者は、天国が神の憐れみと恩寵そのものであることを忘れ、業の報酬であるかのように考えがちなのである。だが、なんの業績もなく、イエスと共に十字架につけられた盗人のように、死の寸前に悔い改めただけの者は、パラダイス(天国)を、驚くべき恩寵、神の憐れみそのものとして受け取る。業績のある者(先の者)よりも先に神の恵みを認識し、多く赦された者は多く愛するとすれば、より多く直ちに感謝と賛美を献げるだろう。
 さて、私達自身はどうであろうか。もし自分の信仰(永年の礼拝厳守や信仰生活)を業績として考えるなら、私達は後になるであろう。だが、自分の信仰を神の憐れみと恵みと受け取り、神の導きに従うという当然為すべきことを不十分にしか為しえなかったふつつかな僕と自分を考えるなら、何の資格もなく無価値なまま、天国に招かれた者として、感謝と喜びに満たされることであろう。願わくば、自分が救われたのはただ神の憐れみと恵みによると、深く思い知る者でありたい。